相対性満足と絶望


いつからそうなったのか。

あるいはそもそもそういうものだったのか。


ともあれ今の世の中の多くの人たちの支出配分って、必要なもの、とりわけ衣食住にまつわるいわゆる生活必需品をなるべく安く済ませて、そうして蓄えたお金をそれ以外のものに費やすことにこそ贅沢や満足を見出す、といった指向性やバランスだと思うんですよね。

それ以外のものって何なのかと言えば、スマホを介して取得できる必需品以外のグッズやサービスで、しかもその多くはサブスクリプションを介して網羅的に享受できるシステムからなるものとして、むしろ”必需品以上の必需”らしく生活にすっかり取り込まれたもののことだと思うんですよね。

まったく便利な世の中になりました。

買い物はおろか、旅行や投資、予約や契約といった手続きの類までスマホ一台で完結できる世の中です。

かく言うあたしのようなヘアサロン業だって他人事ではないどころか、スマホ無くしてはもはや店舗運営そのものが立ち行かないといっても過言ではないほどズブズブに取り込まれた有り様に違いありません。

そうして同じ目的の商品やサービスを、居ながらにして手のひらのスマホ一つで比較検討出来るのだから、サービスを享受するお客さんにしてみればなおのこと、手放せないのは当たり前、検討する商品やサービスに対する知見や価値を決定する”必須アイテム”として、全権を委ねたくなるのも納得のいく話です。


手のひらの中で繰り広げられる、宣伝競争。アピール合戦。

ことサービスだけに限っても情報戦線は群雄割拠、生馬の目を抜くとはまさに消費者の”比較検討”という笠を着た所詮”目的至上主義”がますます加速させる”言ったもん勝ち出たとこ勝負”とすら言えなくもなさそうな貪欲な争奪戦というその有り様のことにこそ違いなく、もはや事実などどうでもいいサービスというインパクトと消費者の願望とのマッチングがすべて、と言えなくもなさそうな消費と搾取という野蛮な経済構造を隠す気もないといった有り様だとか。


あなたにその自覚はありますか。

あたしには、はっきりとあります。

実際にお店に足を運ぶより、手のひらの中で探せる、見つかるものを余程、信じ切っている自分を知っています。


現代の満たされる術とはこんなにも、小さく、果てしなく、ぬかりなく、目的に見合った”案内”を差し出してくれるものであるらしいことを、もはやこれっぽっちも疑う気すらない自分を知っています。


アラズヤ商店は、そんなミクロとして、そんなマクロな社会を舞台に”商売”しているという事実を当たり前として”受け入れる”ことこそを、これっぽっちの疑いも持たず過ごしてきてしまったらしいことに、壮絶なる絶望を今更の如く感じています。


 

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