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2月, 2024の投稿を表示しています

コンビニエントな貧困語

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 “気持ちいい“ 語彙的には割と“単色系“というか、汎用性は高いけれどニュアンスは割と似通ったそんな言葉。 “気持ちいい“ 体感的に活用するなら清々しさのようなことから開放的、快楽的、あるいは淫靡なニュアンスにまで活用可能なまるで天地無用水陸両用徹頭徹尾感謝感激みたいな汎用性、万能性もしくはシンプルに便利もしくは無節操だとか。 日差しが気持ちいい。 整理の行き届いた環境が気持ちいい。 マッサージしてもらって気持ちいい。 さりげない挨拶を交わして気持ちいい。 “気持ちいい“って、かつてはそういった感覚的だったり習慣的だったり道徳的な場面、つまり差し出したり受け取ったりする中で彷彿される想起される感情感覚、その表現として用いられる、コンフォートで穢れのない文脈を主として所属するものだった気がするんですよね。 “イケる“ “キマる“ “ジワる“ 昨今、“語彙“はローミングか多重言語のごとく、その表現の多様性あるいは応用性を誇りながらその実、極めて短絡的あるいは平坦にして貧困なまさしく“語彙“としてものぐさな引用にとどまる“言語表現の貧困化“らしくその簡略化をいよいよ深めつつあるように個人的には感じさせられるものなんです。 なにしろご覧の通り、あたしみたいな人間は無駄に回りくどく、無駄に似た語彙やニュアンスという言葉や単語の磁力に奔走してかき集める、実にまどろっこしく無意味な手間をないよりはあったほうがよしとする今どきの感覚としてはまったく理解に苦しむに迂回傾向をこの上なく好む文体にひた走るもので、つまり昨今見られがち観察されがちな“語彙“という傾向とはまったくの逆さま。 “イケる“ “キマる“ “ジワる“ 他にも色々ありそうなものなのだけれど、とはいえそんな“ものぐさ“らしく重宝しつつアクティブでスタイリッシュでジャンクでスノッブ、つまりは割と退廃的で厭世的であるらしく受け止められがちなニュアンスや発声をこれっぽっちも憚ろうとはしない“語彙“たるその態度か指向性の流通というものは思いの外、というかほとんど明らかすぎるほどの安易なメッセージ性をコンビニエントに標榜しつつ所詮単純で依存的な“傾向“程度のものとして認識し、されがちであることには滅法寛容でありながら“言語表現の貧困化“といった面倒な自覚か危機感のようなものにはまったく無関心どころか不寛容甚だしく見過ごして...

イケテナイ予言始人サピエンス

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 ははぁん。 さては、言い訳の準備を始めましたね。 なんて、たかが外野が卑怯なことを思い付きたがるものではないんですけど、とはいえ近頃あちこちで垣間見る? ような気にさせられなくもないそこはかとなくでもない“掌返し“みたいな言質の数々だとか。 嫌な言い方ですよ、我ながら。 何がって、例のやつ。 “2025年7月5日“ ですよ。 ノストラダムス、Y2K、ホピの予言2012、だとかいわゆる“終末予言“と呼ばれるものは案外小刻みに数えられがちなものらしく、もちろんあたしはその一つ一つにまんまと感化されて存分に楽しみつくしてきたタイプの人間なんですけど、いや、ノストラダムスは終末どころか結婚をして子どもを授かった年、つまりよほど個人的な都合をゴリゴリと刻んだ記憶に残る代表みたいな年だったので、むしろそれとしてそれどころではなかったかもだったり。 今日もこうして具にもつかないブログを綴ってます。 ということはアレです、誰もが鼻からオナラしてるみたいな顔つきで言うやつ、“結局、何も起こらなかったよね“って、何もしてないけどごっちゃんみたいな言い草か勝ちっぷりみたいなものにまんまと帰結しているわけでつまり、ちぇっ、なわけで。 “終末予言って、つまり願望でしょ。人生イケてない界隈の人々による“ なんて、必ず思うけど思うだけで絶対口には出さない人たちに言わないだけで完全に常に思ってます、みたいな視線をガッシガシに浴びせられまくりながら、“絶対にバチ当たればいいのに“ってこっちこそ完全に負けすぎみたいなことをジリジリと思わせられながら結局、相変わらずまたしてもまんまとハマって楽しんでしまっていることこそ、紛れもない事実でこそあるわけで。 全然不毛じゃないです。 とっくに元取ってます。 嘘です、そもそも“予め“なものですから所詮、元も子もありませんてば。 なんて。 とはいえ個人的にはいよいよ近頃に至って、一端のキリを見たような心境というか、端的に言ってしまうとつまり、“なんかシラけちゃった“みたいな感じでいたりするところがなくもなかったりするんですよね。 “南海トラフ大地震“ “フィリピン沖海底火山噴火“ “巨大隕石衝突“ この度の“終末予言“の主軸を張る押しも押されぬ三羽烏といえばこんな感じ。 あたしはかなり前から“隕石説“に取っついて支持するものだったんですけど、近頃に至って...

メッセージがそのままばっかなわけがない

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 “女性性の時代“ 政治、文化系の記事や芸能果てはスピリチュアルに至るまで、そんなメッセージが跋扈して久しい今日この頃。 “風の時代“だとか、ともあれキャッチーなメッセージに世間は関心を惹かれ心を掴まれやすいものらしく、発信する側もそれをしかと心得た見せ方纏いかただとか、ともあれ卒のない発信や訴求にいとまなく励むものらしくその甲斐あってか、   “女性性の時代“ なるメッセージは瞬く間に世間の注目を、果てはサムネイルの有効なるフックとしての需要を鷲掴みにしたものらしく。 そんな大袈裟なほどでもないですか。 そうですか。 トワイエ。 メッセージって、誰が決定するものなんだろか。 それがメッセージとして事実に即しているかどうかだとか、そんなことはどうでも良く、むしろそんなメッセージとして用いれられがちなベクトル、つまりは試みる作用と受け止める側の読解力、とでも言ったところでしょうか。 実は個人的に、かねてよりなんだか信頼ならざる風味を嗅ぎつけるでもなくあまり共感できる素直さにあるらしくもなく。 つまり、お察しの通り。 あたしは“女性性の時代“というメッセージのパワーワード感に、あまり共感的な立場なり理解を示し難い立場をとるものなわけで。 わかります、その気持ち。 手に取るようにわかるその気持ち、あなた、昭和生まれじゃないですか? 近頃だんだんナチュラルに、自分らしく生きることにいささかの逆風か些細なつまづき、あるいは不愉快にして罷りならぬストレスに、口には出せざる不平不満に自己肯定感が揺らぎつつある、そんな迷いにこそ“時代の流れ“なるいい加減にも無根拠にも程がある言い訳の必要を感じてしまったりしていませんか。 “女性蔑視“ なるフェミニズムの旗のもと昭和平成令和と日本女性は着実に跋扈するその意義と権利を“靴下“などと揶揄されながらも逞しく獲得してきたはずなのだけれど、“それってどうなの?“なんてあたしこそ昭和生まれ団塊ジュニアど真ん中たる日本のお荷物世代ながらに思い察するそこはかでもなくすれ違う“何か“の気配。 “戦後強くなったのは、女と靴下“ その言い草。 ちっともわかっとらん、とは誰も言わず、思いもしなかったことなのだろうか。 伝わりづらいことだろうか。 “強くなった“ その語彙に根差すもの、あるいはその言質のベクトルの視点と作用点、とでも言ったところか、な...

思い出すっぽい“悟り“っぽさ

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 “目覚め“とか“悟り“だとか、普通に考えたなら、ああでも“目覚め“はアリか。 “悟り”は、はっきりとナシ。 無事であればあるほどアリエナイのが“人生“というワカラナサでこそありそうな。 「わたしも目覚めたいですっ」 なんとまあ、積極的な。 一応人並みには、褒められたほどのことではもちろんないのだけれど、一応義務養育を経て高校なんかはとっくにやる気もなく、気が付いたら人様の髪の毛を切ることを生業とする人生を生きている。 もちろん、寝坊するのが普通で、遅刻魔だった。 そういうことなのか。 “目覚めたいです“ “悟りたいです“ 近頃、そんな趣旨の香るサムネイルを授けられた動画や記事をやたらに目にする。 言わずもがな。 もちろんそれはあたしという興味や習慣がかき集めたもの、あたしという“オススメ“を企画するアルゴリズムが見させるもので、つまりあたしは“目覚めたい“のか。 遅刻したくないと、いまだに自らの寝坊癖を呪うものなのか。 とっくに、遅刻なんてしなくなっている。 何しろ定時のようなものに縛られる生き方をあまりしていないからだ。 これについては我ながら恵まれていると日々実感する。 というかなんとなくそういう風に、恐らくは“遅刻“という概念すら嫌すぎて、嫌すぎるあまりそういうものに縛られなくて済むなりの人生を無意識か偶然かただの習性がさせることかはさておき、デザインしたがるというかしてしまうのが“人間“ということではないのか、などと都合生意気なことを案外本気に似たところで思っていたりする。 おかげで足踏みも甚だしく、牛歩の如く進捗に恵まれない人生を生き続けてるとも言えなくもないのだけれど。 そんな馬鹿な。 そんな気がしていた頃もあったが、そんな気から近頃は割と解放されつつある実感に度々唆されて、時間もタイミングもなくやけに眠くなったりする。 単純に、緊張感がない。 ダメな感じに受け止められるかもしれないが、勘違いしないで欲しい。 “心地よさ“のつもりで、努めるまでもなく騙すでもなく、極めてポジティブで澄んだ心境としてナチュラルに降り注ぐような、湧き水を眺めるような穏やかさのことだ。 自分でしたためながらとっくに気味が悪い。 もしかしたら、これなのか? などと思っていたりする。 もちろん感性などではない、それどころかにわかとして都合逃避的な場当たり的な長閑さのように...

近視眼的対極を包むそれとの対極までからなるとっくに見る俯瞰

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つまんないんですよね、”松本人志” って、違いますよ? 彼自身のことじゃなくて、彼にまつわる近頃のあれやこれや、ってことですから勘違いしないで欲しいんです。 若手芸人や子分や取り巻きだとかそんなんでもなく。 ”笑ってはいけない”だとか、結局の消去法における”大晦日の定番コンテンツ”としてどんな年もついに最後まで見通したことはなかったくらいには馴染み深くお世話になったことですし、”滑らない”とか”IPPON”だとか”DOCUMENTAL”ですか、盤石として流し見るに足る安定感を誇るバラエティ番組、その話題性か充実度か企画力かたかが迎合かたぶんその全部かとは思うんですけど所詮、くすぐられる期待感のようなものを常に刺激して迎え撃つその”頂点”たる存在感をこれっぽっちも疑わない一視聴者として長らくお世話になってきたものなんですから。 相変わらずの盤石なる書き出し。 いや、毎度の如く読みづらくてごめんなのだけれど。 そんな混乱より先んじて松本人志に一石を投じた”中田敦彦すげええぇ” みたいなことも個人的には案外興味がなくてですね。 ジャニーズやべえ みたいなことからの急転直下ですか、いやはやガーシー実刑とかせっかくの手柄どこいった、もさりありなん。だとか。 ときに巷では”二極化”だとかって、近頃なんだかあちこち界隈の方々が揃い踏みの如く心地よさそうに唱えるか吹聴するか食い物にするらしいかはさておき。 美味い、不味い 高い、安い おしゃれ、ダサい 盛れる、きしょい なんでもいいのだけれど、つまりそういうことなのかなと。 そんなところなのかな、”二極化”って。 だとか。 ジャニーズやべえ。 一体、何が”やべえ”のか。 今は亡き”ドン”がやべえのか。 言わず存ぜずとしてやり過ごす”中の人”がやべえのか。 わかってますともうやむやですともと言わんばかりの”業界”がやべえのか。 それでも信じたがるか光明を見出したがる”ファン”がやべえのか。 どれがどれでもいいんですけど、そんな”やべえ”かもしれない界隈に、可愛い我が子をしめしめと送り込んで鼻高々にレッスンに通わせた”被害者”なるタレントあるいはそんな卵たる諸君の父母たる皆皆様方。 お前ら、我が子がどんな顔つきで”やべえ”らしいそんなとこのレッスンだとか行ったり来たりしてたんだか、散々眺めて得意げに見過ごして肝心なことにはすっかり蓋して...

優しくないなんて優しい

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  この世のすべては逆さま。 そんなことに気付いてしまった気がしたのはまだわりと近頃のことで、“気付いてしまった“などとまったく身勝手なことを身勝手に採用して何食わぬ調子でやり過ごしたような言い方ですっかりやり過ごしたらしく言い逃れるつもりらしく、とはいえそれにしてもそう感じてしまったことは自分ばかりに限ってしまえばかなりのレベルで“確かすぎる“感覚に違いなく、やはり身勝手な感覚なり言い草には違いないのだけれど、現時点において眺める今後一切について採用するべき、採用することになるであろう“感覚の基礎“として踏まえる平野、その揺るぎのなさ、あるいはそんな予感こそかなり揺るぎない感じだったりする。 相変わらず、鬱陶しい書き出しすら自覚的に控えることすらもままならない“自分のことばっか“馬鹿丸出しなんである。 どうしてままならないのか。 その説明は、決して難しいことではない気がしている。 こと、自分自身に対してというベクトルに限ってしまうならことの他そんな感じのはずなんである、なんてまたしてもねじれたような言い草。 たかが準備運動みたいなものだから勘弁してほしい。 自分のことくらい、努めてでも正確に知り得たつもりであるフリくらいしていたいものではないか。 その程度の気取りくらい初期設定として踏まえたいものじゃないか。 子どもの運動会で、楽しいはずの場面において、ええ格好しいが生ぬるく容認されて然るべき希少なご褒美的場面にありつきながら、公衆の面前でいきなりアキレス腱断裂、壮絶に、あるいは謎すぎるほどの滑稽さかもしれない唐突さで開陳してしまうような、曝される“日々のありのまま“みたいなザマをたまたま居合わせただけのたかが他人どもにまんまと認識されて決定されるなどいうとんまなザマには、なるべくですらなく高々自分自身程度のこと、みすみす泳がせたがるものではないではないか。 ……えっと。 読みづらいですか。 ですよね。 わかります。 だからって、あなたのその感覚。 “逆さま“ですから。 あたしの文章は心掛けて捻転質で、繰り返しがちで、比喩のつもりがただずっこけただけみたいな質感甚だしいものであることはもちろん自覚しているのだけれど、とはいえそうあるべきというか、そうありたいと願うその切実さにこそ思いの外自覚的感覚的有り様として控えるつもりなど微塵もないタチのもので、それは...

凶器とするなら大森靖子

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 “自分には才能がない“ そんな不憫極まりない事実を、いみじくも自らに説明出来てしまう気がするの実に苦しいことだ。 のっけから命を失いかねない、自己愛にすぎるようなことを言っている。 すっかり、移りゆく次元から取り残されるタイプの言い草だ。 そうかもしれない。 あたしみたいな人間はまさしく才能の如く、そんな言い草にぶち当たる瞬間を本気で心の底から恐れていたに違いない。 恐れていた、などとつい癖が出てしまうところがあたしという何より見苦しい心の習性のように感じる。 なにしろ、昨日だって大森聖子さんとみのミュージックさんの対談動画を観て、久々にアタマというよりはもっと反射っぽく致命的な、心というよりはもっと生っぽく核心的ななにかをコテンパンに打ちのめされた気がしたばかりだ。 “自分には才能がない“ などとのぼせてうらぶれたようなことにすら思い当たれない完膚なきまで叩きのめされる憧れの重圧にすっかりひれ伏したばかりなのだというのに。 “ずっと未熟なままでいたい“ “語彙“や“文脈“ って、難しい。 そんな話を、話し出したきりとっくに踏み外したことも自覚できないような有り様の長文に馬鹿して知らしめたかったらしい筆跡はつい先日のことだ。 初めのうちは心掛けて控えていたものの、持ち前の“長文癖“がすっかり暴走した上に、全文をさらに読み返して徹底的にリライトしたことはここだけの話だ。 などと告白めいたことを晒してみたところで仕方がない。 とはいえ、そうしなければいられなかったのは、下手の横好きとはいえ恥ずかしかったからだ。 つまらないし、自分が言いたいことを書きつらうだけの図々しさ、客観性のなさに寒気がしたからに他ならない。 書きたいことを書いても意味がない。 意味がない、とはなんのことだ。 はしたない、とはそういうことだとついつい思ってしまう立ち遅れた次元の言い草。 大森さんは、"共感されたくない“とおっしゃられていた。 なんという、とんでもない救いをあっけらかんと示される御仁であることかと秒速でひれ伏した。 相変わらず、まったくその通りでしかないと、あたしのどこかのなにかがエモーショナルに、ジェラシーこそ爆発寸前に、相反する反応熱がアンビバレントな心のうちを誤魔化したがる臆病を1ミリも逃さぬ狂気の秒速。 “凶器、大森靖子“ 格好いい。 “共感されたくない“大森さんは...

”自分のことばっか”とする文盲か、たかが日常とするそれぞれか

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 語彙とか文脈って、難しいですよね。 操ることすらままならないものを、齟齬なく他人様にお伝えしようなどと自惚れたことを試みるならなおのこと、十中八九都合ひん曲がって誤解か歪曲かただの不愉快らしく足蹴に読み捨てられて要らぬ決定を下され見下されるのがオチというもので。 ”言論テロ”だなんて自覚があるもなにもたかが性分丸出しの如く、年に何度かはそんな血を騒がせては仕出かすだけ仕出かしながら、神のご加護かはたまた鉄槌か、一先ずは適当なものを適当たらしめるが如く失うか見損なわれる的境遇に貶められがちなタチだったりします。 馬鹿なのに主張は激しい、って明らかに面倒臭いですよ。 そんな手に負えない性分である自覚はもちろんのこと、なんなら扱い損ねてばかり擦り傷打身打撲だとか割と整骨院レベルの煮え切らない負傷に腐らせてやり過ごす迫力のなさも含めて、つまり碌でもない生き様を性懲りもなく垂れ流す生きながら産廃ならぬ人廃的始末の悪さをもろに露呈し続けている自覚こそ揺るぎなく。 反省する気配もなく。 身に余るそぶりこそなく。 ”選択の自由” つまりは“自分のことばっか” っていうお話を先日したんですけど、そんなことすらとっくに正確ではない話の設計をしている自覚はあるし、不正確どころかほぼ逆さまに伝わりかねない予感というか吹き荒ぶ残滓さながらにわだかまる心許なさだとか、やっぱり扱い損ねるんだな、といった過大評価の失望かポンコツにもとるせん妄かはともかく、そんなものにばかりはとっくに免疫を獲得したものらしくのさばるだとか、誰にもどうでもないだとか。 スーパーで行き交うにもままならないほど、どうして視野狭窄の如く自分の都合にのぼせたような人ばかりなの? っていうほとんど怒りのような、そんなこと思う自分自身こそふてぶてしさ極まるみたいな感情って果たして、本来あるべき人間感情なり倫理を踏まえた上で全方向に言い得て相応しくまかり通るものなんだろか。 そもそも“本来“って、なんのことなんだろかだとか。 もちろん、そんな日和った前提につまずくつもりなんてないのだけれど。 感情的にはとっくに譲り難く嘆かわしき有り様として決して不正確なばかりの見立てとは思っていないし、つまりそれって伝わりにくいかもしれないけれど、”自分のことばっか”っていうその言い草を字面そのままにかい摘む、道理や道義を履き違えて鵜呑...

4秒で見放す次元譚

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 ”明日、地震くるってよ” なんてことが割と深刻に、とはいえ所詮はエキセントリックに取り沙汰されていた2月10日近辺X界隈。 ご存じだった方は、……いらっしゃらないですよねわかります。 え、まじで。 それって2月11日の間違いなんじゃないの?  何時46分だとかってアレなやつのことならさ、なおのことさ。 って、まじで思っていたのはあたしです。 10日、11日は時計を見るたびに”46分”を手繰り寄せ、今か今かと”アレ”が、行動心理学に基づく”恐怖と警戒”を煽る精緻なアラートが物々しく、一ヶ月ぶりに鳴り響くその瞬間をシュミレートし続けたものでした。 アラズヤ商店は良かれとしてお節介なところがあるので、そんな前日から当日に至ってはお出かけいただいたお客さんお一人お一人にもれなく誘導かつ押し付けがましく”アレ”な啓蒙を企てないわけがなかったわけで、 ”まじで?” ”本当に?” ”嘘でしょ勘弁してよ” などとさまざまにご共感しかねる旨のお気遣いばかりを徒にむしり取りまくったものなんでした。 全く迷惑な話ですよね、自分でもそんな自分が気味悪いです。 結果、何も起こらなかったんでやんの。 って、ああみんなアラズヤ商店のこと思い出してくれてんだな、って軽く一儲け。 わかりますかね、こんな戦略だってあろうもんだ、なんてついつい嘯くこの世嫌いの言い草だとか。 この前お話しした通りアラズヤ商店は基本、如何なる事象についても一先ず発動する”反発性バイアス”みたいなことを怠らないタチですので、まあアタマおかしいです。 まともにお付き合いできる筋の感覚ではまともに生き残れるはずもない、っていうか生き残りたいはずもないというのがたぶん本音で、それがわからないし異常に思える人はそもそもとっくにウチみたいな面倒臭いお店になんか来るわけないですし許容できるはずないですし、たぶんつまんないんじゃないですか。 なんて、勝手に決めつけて疑いもなくいるわけなんですけど。 まともで、理路整然としていて、品行方正。 整っていて、落ち着いていて、新しくて、疑わしくない感じ。 そんなトータルな印象において適う気がする”明瞭会計” そんな観察的で選択的な”おサイフ事情”なんて価値観はとっくにバグってる気がするし、それに適わないことにあまり脅威を思い付きたくないと思ってるんですよね。 だって要するに、なんか信用な...

何サマバイアスと多様性の笠

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 ”認知バイアス” ”正常化バイアス” ”バイアス”っていうのは端的には傾きとか偏見とか、それは言い過ぎかもしれないですけど、要するに見解として”答えありき”的な頑固さだとか聞く耳のなさのようなものだとか、ってそれもまた言い過ぎかもしれないんですけどつまりは積極的あるいは高圧的コミュニケーション不全という明け透けなる標榜、そもそもその気がないことを概ね憚らない態度を直面する”ディテール”に対してあからさまに振る舞いつつ蔑ろにやり過ごしたがる”優位性”、その横柄なる”優生思想”という傲岸なる腹の中に裏付けれた臆面のかけらもないその却下性、見下してままなるとした振る舞い方そのもののことのはずで。 ”認知”、あるいは”正常性とは。 人類は、あるいは特筆して日本人とは”既存性”、”帰属性”を嫌いながらその揺り戻しの如くもろに囚われがちな民族として、”知らない”、”わかんない”、”見たことない”といった”ディテール”についてあからさまな”嫌悪”あるいは”拒否感”を示しがちで、つまりなかなかの”日和”、まあまあな”チキン”、そこそこには”性悪”であるその腹の中というチープな保守思想を隠しきれない気質であることには蓋をしながら親切とか理解とか絆、なんちゃってことあるごとに物分かりのいいようなメッセージやワードを笠に着るどころかほっかむり同然でやり過ごす”調和思想”にばかりは敏感で、やり過ごしてすっとぼけまくる”ええ格好しい”を総意において重んじることで精錬跋扈してきた民族として、今や世界にひしめく格上の”優生思想”メタ認知バイアス傲岸覇権主義者たちによっていよいよ食い物にされること甚だしい最終局面に陥りつつあるわけなんだとか知らんけど。 だから、”情報”に囚われるんだとか。 囚われたいんだとか。 とっくに捕われてるらしいだとか。 日常の視線の先にはあらゆる”情報”が溢れかえって、もはやその全てを捌き切ることなどこの地上における何人にも適わないマジカルハイエンドスペックとして次元の彼方に遠ざかり、人類の、ましてやその底辺たる庶民に至ってはそれぞれの手元にそれぞれとしてカスタマイズされた”情報”という”搾取された提案”に一ミリの疑いも持たないどころか”便利”はたまた”快適”などと自らのストレス低減と願望の加速にばかり評価をバグらせたバクかマナティみたいな悠々たる感度の鈍化ある...

ヤバい観察と蔓延る語彙

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 ”ヤバいよね” そのたった一言で、世間の多くが失ったのかもしれない。 その万能さを歓迎し、引用し、乱用し、凡庸に蓋をしてあぐらをかいたのかもしれない。 あの店ヤバい。 とっくに言われ慣れている。 そんな気がしている。 それが事実に添った謂れである必要はなく、むしろそうではないかも定かではないからこそ決定づけたがるある種の共犯性、誘導性をまとった”言質”というヤバさ。 そんなものにはとっくに慣れている。 だって、日本人だもの。 ”おしゃれ”イコール”ダサい”という図式の信憑性にかまけた。 ついでの足で、”ステレオタイプ”を看破した。 それを根拠に、”ヤバい”という評価と選別の”無責任性”と妥当なる”無価値性”を決定づけてしまいたいと思っている。 アラズヤ商店がアラズヤ商店たらしめる積年の言い掛かりに違いない。 ”あそこの通りの角のとこ、カフェかなんか出来たっぽいよね?” 知らんがな、の暖簾を分けて臆面なく結論を引き連れた言い草。 「知らんがな」 本当はそう応えたいのだけれど、そんなことでは秒で破綻してしまう社会性、言えるはずもない。 「美容室かもわからんし。見たとこそんな感じとか知らんけど」 回答として卑怯にして秀逸。 誰も困らないし嘘にもならないし何しろ、どっちだっていいなりにカテゴライズとしてまったく同質のディテールをとりがちな”類”をかいつまんで聞きかじるとして万能回答。 さりげなくコミュ力お化けを気取る初級編とでもいったところか。 カフェ? 美容室かもわからんし 共通点は、なに。 簡単だ、”わかりやすい”んである。 ”なんだかとりあえずおしゃれな感じ打ち出してんだな”といったフワッフワな了解と既知にたるディテール、つまり”わかりやすい”んである。 ”なんだかおしゃれっぽい” その期待は、夏の夜の街灯に戯れる蛾の如しなんである。 その灯さえなければ、数多の蛾をはじめその他の虫たちはせめて、一夏のアバンチュールを完遂して今世の使命を、たかが虫などとは言わせないゴージャスな一生を見事に遂げて尽きたのかもしれない。 しかしながら残念なのは、たかがそれぽっちがバチバチと際限なく爆裂なる突撃死を遂げようと、虫たちは後から後からその指名を果たさんとして現れては消え羽ばたいては消えとしてまったくキリがないらしいんである。 眺めるものから見れば、”そうなんだ、へえ”く...

おしゃれJAPAN

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 ”おしゃれ”って、語彙が嫌いです。 あるいはそんな価値観だとか。 ”一億総おしゃれ至上主義”だとか、近頃なんだかひっくるめたような言い方がお気に入りみたいな感じなんですけどそれも仕方がない、なにしろ”マクロ”としての症状をことあるごとに違和感として排除したがるアラズヤ商店の性分として致し方ないのです。 とはいえ、”おしゃれ”って、なんですか。 おしゃれ  【お洒落】   1.  気のきいた服装・化粧やポーズに心掛けること。そうする人。  「―な男」   2.  心をくすぐるばかり)しゃれた。  「―なドレス」 ”一億総気が利いている・心掛けている” あるいは、 ”一億総心をくすぐる” 文脈的になんだかいい感じではなかろうか。 いや、そうではない。 ”一億総それを求める”のだから、語彙としてベクトルが違ってくるものではないのか。 つまり、 ”一億総気が利いていて欲しい・心掛けて欲しい” あるいは、 ”一億総心をくすぐって欲しい” 欲しい、のだ。 その上での”至上主義”ということ。 なんだか都合言い掛かり臭いことを言っているだろうか。 文脈的になんだか、無責任に依存的な風味がしなくもないところがこちらの作為とはこれっぽっちも噛み合わない気がしないでもないのだけれど。 言い掛かりには違いない気もなくはないのだけれど。 ”おしゃれ”であることが購買行動における重要な指針であるなら、それとした欲求にフィットする、あるいはアプローチとしてその効果が広範に受け入れられるものって、それってむしろ”ステレオタイプ”ってことにはなりますまいか。 などといったことは、いちいち言われなくても割と日常的に感じさせられなくもないことのはずで、巷に見る行列だとか、話題のスウィーツに群がる女子だとか、その関心や欲求の在りかについてそこはかとなく迸る”違和感”のようなものを察する人は少なくはないはずで。 その結果として垣間見る”高級食パン店閉店ラッシュざまあ”的待ちかね感ほとばしる SNSポストだとか、”不倫炎上俳優公開処刑メシうま”的揺り戻し需要爆伸でウハウハ週刊誌だとか、つまり世間って性分あられもなく陰陽甚だしく。 ”おしゃれ”の対義語って、なんですか。 辞書引くまでもなく単純な連想的感覚値としてはたぶん、”ダサい”とかその辺に平たく着地するものと思われるわけで。 ...

背中合わせでも分ける道はあって

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 目に映るものは一緒でも、その受け止め方や理解や思いつく興味みたいなものは人それぞれで、とは言え”二極化”だとかってそんな言い方が近頃では目新しくも耳新しくもない気がすることもあながち、侮れない気もしなくはないだとか。 書き出しから長文。 悪い癖であることは自覚しながらとはいえ、それも許容できる人とそうではない人、もっというなら案外嫌いでもない人とまったく受け付けられない人、なんてつまりは”二極化”って、今の世の中には当然と言えなくもなさそうな構造的成り行き、あるいは傾向として明らかに仕組まれた計画的成り行き、なんてちょっと偏った言い草に化かすことさえ出来なくもなさそうな現象として歓迎される、とっくに逃れられない人類の性質みたいなものがさせるべくしてさせることのように思えなくなかったりもするんですよね。 って、また長文。 ブログなんて書いても今どきのほとんどの人が”活字離れ”甚だしいらしいことは言われて久しいですし、”活字好き”と自認する人たちも言い方を変えれば積極的”欲しがり”として、好き嫌いだとかその思想や傾向、信仰や環境に乗じてまんまとコントロールされがちというかされたがりがちというやっぱり”二極化”なる啓蒙に比較的相性が良さそうな性質を差し出すもののように感じさせられなくもないだとか。 つまり、こんな書き出しを書き出しとて好む人と嫌う人は、意図に均して瞬間で隔てられる、ということで。 これからの世界はそういった傾向や性質をますます狡猾に使いこなすはず、ということで。 それが悲しいっていう話をしているのではありません。 むしろアラズヤ商店は、そういった”傾向”みたいなことをうやむやにしても一定の顧客によって保たれて潤う”商売”というものを、かなり早い段階から見損なってきたつもりでいるんです。 世情から離れて独自の判断の中で常に価格帯を見直し、それにそぐわない”理由”でアラズヤ商店を訪れていた人は程なく離れていったし、あるいは昨今での”社会問題”とすら言わせない何やらかの画策の気配すらしなくもない例の”流行病”だとか”お注射”だとか、そんな他愛もないことすらもいずれかの形で”瑕疵”らしく商売を快くは過ごせなくさせるものとして立ちはだかることを予見して、”他愛もないこと”として跳ね返す意志を明らかにしてここ数年を過ごしてもきたわけなんですね。 そうした理解...

象徴を着た世代、象徴を脱ぐ世代のミクスフューチャー

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 宇宙人がお揃いで着てるアレ、ユニクロだから。 冗談のつもりでときどきそんな話をするんですけど、イメージ伝わりますか。 宇宙人が着てる、”アレ” 宇宙人と言われて大概の人がイメージする姿って、アタマが大きくて目も大きくて鼻と口はやけに小さかったりあるいはそもそもなかったり、カラダは細くて小さくてつまりバランス的にはアタマでっかちで、ボディスーツ的ピタピタ感に身を包んだ…… の、”アレ”です。 アレって、ユニクロだから。 あたしが誰構わずやらかして憚らないトンデモ話の導入として、掴みとして”ユニクロ”は格好のパワーワードとしてその威力を遺憾無く発揮してくれるんですけど、あたしの”トンデモ”はふるわない。 悲しいです、嘘じゃないのに。 あたしが語る”トンデモ”における”ユニクロ”って、つまり”概念”ですから。 いや、きっとお話を聞いてくれる方々もそんなことくらいきっとわかってくれているはずとはもちろん思っているし、その上で”面倒臭えとか思ってんだどうせ”って、あたしはまあまあ腐るわけなんですけど。 あたしは若い頃はアパレルやっていたのでもちろんファッションが好きですし、おしゃれかどうかはわからないですけど幾つになってもそんな興味を失うつもりはないっていうか、失えないっていう依存度高めの”謎おじ”化甚だしく人目にかさばらないよう自覚的にファッションを楽しんでいるつもりではいます。 一定年齢過ぎたら流行りは関係ないし、むしろ流行りを追えば”年甲斐”っていう違和感を徒に深めるだけですし、ともなれば許される感度は”蓄積”だとか、幸いにしてあたしらの世代が過ごしてきた時代はトラディショナルもアメカジもパンクもグランジも何もかも、それぞれのジャンルやスタイルとして独立したムーブメントとして体験できたので、90年代以降のミックスカルチャーに見る許容や改変といった合理性とは違う、面倒ではあるけれどめっぽう丁寧な”蓄積”を過ごせる”幸運”に恵まれた世代だったはず、とは思っているわけなんです。 ”一億総ユニクロ” まさかそんな時代が来るとは思ってもみなかった。 ファッションに委ねた”個”たるアイデンティティの発露は何処へ。 なんては大袈裟ですか。 とはいえ時代の変化は”個”なる価値観すら見直させたのかもしれないし、ファッションそのものに期待する意図や目的も架け替えられたのかもしれな...

不可欠であり、不毛でこそある根拠とか摂理

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  あなたがよりお得な商品やサービスを検索することや、価値や話題性、優位性に富んだそんなあれこれを期待することと、 地面が揺れたり、火災で何もかもが消失してしまうこと。 それって全然無関係な話なんかではないはずって、アラズヤ商店はほとんど当たり前みたいに思うわけなんですね。 ちょっと何言ってるのかよくわからないんですけど。 とはよく言われることなのですっかり慣れっこです。 ですけど、"わかって欲しい"っていう居た堪れない欲求がちっとも隠せないこともまた事実で、諦めのつかないところであって、めっぽう面倒臭がられるところでこそあって。 あなたには、何が必要ですか。 その答えに辿り着くために、地震や災害って起こるんじゃないのか? なんてことをときどき思ったりするんですよ。 目を疑いたくなるような大きな災害などに行き当たるたびには、そんな思いはますます深まるばかりで。 人間誰しもが、とは言えないかもしれないんですけど、それにしてもほとんどの多くの人々が望みや願いを叶えるために日夜お仕事に励むわけじゃないですか。 そうして得た対価で、叶えるわけじゃないですか。 そうして手に入れたはずのものが、どんな戒めか教訓かわかりませんけど、思いもよらない災害や事故、不毛な出来事に巻き込まれて一瞬のうちに奪われたりすることが、稀ではなくあちこちで起こる時代らしいんですよね。 もちろん今に限った話ではないし、人類は常にそういった脅威や変異を乗り越えて現代にたどり着いたはずだとは思うんですけど、それにしたって、どんな説明や言い訳や判決を述べられようが、 ちょっと何言ってるのかよくわからないんですけど。 としか言いようがないことが、近頃に至ってはどうにも頻繁に起こったりするらしく見えなくもないわけじゃないですか。 その意味、説明できますか。 ニュースはいろいろなこと伝えてくれますよ。 地殻のプレートの境に蓄積されたストレスの解放 プレートが跳ね上がった衝撃で津波が発生 非常電源の喪失 ペダルの踏み違え 人権蹂躙 年齢・性別蔑視 パワハラ・モラハラ 何だか全然関係ない話まで紛れ込んできた気がしちゃいますか。 まさか、アラズヤ商店はちっともそうは思わないですし、むしろこれってフラクタルに蓄積された現象だとか、例えば”軋轢”だなんてかなり大袈裟っぽい単語で括ったってちゃんと説明でき...

それがあなたであるなら結構です

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 世界はいまだに、くらべっこするしかないらしいんですよ。 今日に至っても、その脅迫から逃れることは思いつけないらしいんです。 より美味しい食事。 より素敵な服。 より付加価値の高い車。 より快適で見栄えのする住まい。 それを提案して提供してくれるサービス。 考えてみたら当たり前のことかもしれないんですけど、っていえいえ、果たして本当にそうなんだろか? ”考えてみたら”って、簡単に言うけどそれってなんのことなのか、なにを考えたものなんだろか? 誰が考えたものなんだろか。 それって意外な盲点のような気が個人的にはしていて、だって、 より美味しい食事。 より素敵な服。 より付加価値の高い車。 より快適で見栄えのする住まい。 それを提案して提供してくれるサービス。 って、それってあなたの理由や動機として、あなたの言葉で説明できますか? もちろん、それが必要である理由、そうだと思える理由ってこと。 どうして、より美味しい食事が必要なのか。 どうして、より素敵な服、車、住まい、すべてにおいて即答出来るあなただけの”願望”とか”欲求”、それって、本当にあなたが望んで思いつくことって、言い切れますか。 もちろん、それが本当にあなたっていう”願望”で”欲求”であるならそれでいいです。 それはなぜですか?  って、またまた問答は続くっていう。 それはなにを望んだ上での”願望”で”欲求”で、自分に必要と感じるんですか? って。 ”エシカル”なんて言い方を近頃よく耳にする気がしないでもないんですけど、それを思想のように構えて身の回りのすべてを見直すべき、なんてことまではさすがに思わないんですけど、これからの世の中の”方向性”かあるいはこれからの人類に求められるまさに”倫理的”な思考の順序とか客観性のような、そんな示唆として受け止めるにはめっぽう”現象的”なワードである気はしなくもなかったりもするんですよね。 何だかまわりくどい言い草になってはしまうんですけど。 大きくて豪華な車、たくさんすれ違うんですけど、あれってその人の”成果”としてもちろん認められるべきステイタスに違いないんでしょうし、誇って然るべき”物質的表現”ってことだ と思うんですけど、こと”エシカル”っていう例えばそんなメッセージが認識させるこれからの世の中に対する汎用性とか単純な”価値観”としての変化だとかって、たぶ...

多様性なる無限ループと離反する逆さまの未来

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  あなたが求めるもの、信じているものはすべて”逆さま”です。 例えばそんなことばかり、そんなことにはこれっぽっちも心当たりも興味も抱かない人たちに向けて、アラズヤ商店はついつい口走りがちなんですけど、もちろん面倒がられるばかり、いい顔をされることはほぼあり得ません。 伝わらなくても、聞く姿勢だけでも示してくれる方は優しいです。 それに乗じて、話したいことを息つく暇もなく捲し立てるあたしはほとほと、商売人失格なんですけど、わかっているんですけどやめられない。 失格とか、適性無しってつまりそういうことなんだろうなあ、だとか。 おいおい、他人事かよと。 例えば、連絡ツールとして電話ではなくLINEがスタンダードになったこと。 その事実をどう捉えるのか。 突如、傍で鳴り響くコール音。 あの不快さはあたしの生活の中からはここ数年の間にほぼ排除されました。固定電話の契約を解除してもう七、八年は経つかと思う。 加えて、スマホに掛かってくる見知らぬ番号通知はスルーがデフォ、といった認識が市民権を得たことは、無駄な逡巡や良心の呵責といった些細なストレスすらも解放に向かわせました。 真夜中、日付が変わっても些細な連絡すら控えるべきでもないことを酌量する人たちも増えたのだけれど。 ”都合がいい” サービスを提供する側の立場には、”ニーズ”を示す意味合いにおいてなかなか縁深い語彙のような気がします。 ”都合がいい女” なんて、かつてはそんな言い草を得意げに振りかざす人がいる時代もありました。 過ぎた時代は、そんなかつての語彙すらも連れ去ってくれたものなのか。個人的にはそうは想わないし、語彙と流行り言葉の見境を無くせるほどカジュアルでもポジティブでもあっぱらぴーのつもりもなくて、むしろ平均よりは明らかに鬱陶しいほどには、”正確な語彙”という陰湿な詮索においてその言葉を発した人物の真意を勘ぐりたがるネガティブでマイハートデストロイングハードな抽出思考と性分を憚らないもので。 ”都合がいい” サービスを差し出す側としてそれはこちらの言い分であり、お客さんが憚らず要求して酌量されるらしい”ニーズ”への対応策であるつもりは毛頭ございません。 アラズヤ商店は、そんな商売であることを白状して憚りません。 ”ちょうど、都合のいいときに行きたい” なるほどそうですか。 ともすればちなみにあなたは、...

相対性満足と絶望

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いつからそうなったのか。 あるいはそもそもそういうものだったのか。 ともあれ今の世の中の多くの人たちの支出配分って、必要なもの、とりわけ衣食住にまつわるいわゆる生活必需品をなるべく安く済ませて、そうして蓄えたお金をそれ以外のものに費やすことにこそ贅沢や満足を見出す、といった指向性やバランスだと思うんですよね。 それ以外のものって何なのかと言えば、スマホを介して取得できる必需品以外のグッズやサービスで、しかもその多くはサブスクリプションを介して網羅的に享受できるシステムからなるものとして、むしろ”必需品以上の必需”らしく生活にすっかり取り込まれたもののことだと思うんですよね。 まったく便利な世の中になりました。 買い物はおろか、旅行や投資、予約や契約といった手続きの類までスマホ一台で完結できる世の中です。 かく言うあたしのようなヘアサロン業だって他人事ではないどころか、スマホ無くしてはもはや店舗運営そのものが立ち行かないといっても過言ではないほどズブズブに取り込まれた有り様に違いありません。 そうして同じ目的の商品やサービスを、居ながらにして手のひらのスマホ一つで比較検討出来るのだから、サービスを享受するお客さんにしてみればなおのこと、手放せないのは当たり前、検討する商品やサービスに対する知見や価値を決定する”必須アイテム”として、全権を委ねたくなるのも納得のいく話です。 手のひらの中で繰り広げられる、宣伝競争。アピール合戦。 ことサービスだけに限っても情報戦線は群雄割拠、生馬の目を抜くとはまさに消費者の”比較検討”という笠を着た所詮”目的至上主義”がますます加速させる”言ったもん勝ち出たとこ勝負”とすら言えなくもなさそうな貪欲な争奪戦というその有り様のことにこそ違いなく、もはや事実などどうでもいいサービスというインパクトと消費者の願望とのマッチングがすべて、と言えなくもなさそうな消費と搾取という野蛮な経済構造を隠す気もないといった有り様だとか。 あなたにその自覚はありますか。 あたしには、はっきりとあります。 実際にお店に足を運ぶより、手のひらの中で探せる、見つかるものを余程、信じ切っている自分を知っています。 現代の満たされる術とはこんなにも、小さく、果てしなく、ぬかりなく、目的に見合った”案内”を差し出してくれるものであるらしいことを、もはやこれっぽっちも疑う気...