多様性なる無限ループと離反する逆さまの未来

 

あなたが求めるもの、信じているものはすべて”逆さま”です。


例えばそんなことばかり、そんなことにはこれっぽっちも心当たりも興味も抱かない人たちに向けて、アラズヤ商店はついつい口走りがちなんですけど、もちろん面倒がられるばかり、いい顔をされることはほぼあり得ません。


伝わらなくても、聞く姿勢だけでも示してくれる方は優しいです。

それに乗じて、話したいことを息つく暇もなく捲し立てるあたしはほとほと、商売人失格なんですけど、わかっているんですけどやめられない。

失格とか、適性無しってつまりそういうことなんだろうなあ、だとか。

おいおい、他人事かよと。


例えば、連絡ツールとして電話ではなくLINEがスタンダードになったこと。

その事実をどう捉えるのか。

突如、傍で鳴り響くコール音。

あの不快さはあたしの生活の中からはここ数年の間にほぼ排除されました。固定電話の契約を解除してもう七、八年は経つかと思う。

加えて、スマホに掛かってくる見知らぬ番号通知はスルーがデフォ、といった認識が市民権を得たことは、無駄な逡巡や良心の呵責といった些細なストレスすらも解放に向かわせました。

真夜中、日付が変わっても些細な連絡すら控えるべきでもないことを酌量する人たちも増えたのだけれど。


”都合がいい”


サービスを提供する側の立場には、”ニーズ”を示す意味合いにおいてなかなか縁深い語彙のような気がします。


”都合がいい女”


なんて、かつてはそんな言い草を得意げに振りかざす人がいる時代もありました。

過ぎた時代は、そんなかつての語彙すらも連れ去ってくれたものなのか。個人的にはそうは想わないし、語彙と流行り言葉の見境を無くせるほどカジュアルでもポジティブでもあっぱらぴーのつもりもなくて、むしろ平均よりは明らかに鬱陶しいほどには、”正確な語彙”という陰湿な詮索においてその言葉を発した人物の真意を勘ぐりたがるネガティブでマイハートデストロイングハードな抽出思考と性分を憚らないもので。


”都合がいい”


サービスを差し出す側としてそれはこちらの言い分であり、お客さんが憚らず要求して酌量されるらしい”ニーズ”への対応策であるつもりは毛頭ございません。

アラズヤ商店は、そんな商売であることを白状して憚りません。

”ちょうど、都合のいいときに行きたい”

なるほどそうですか。

ともすればちなみにあなたは、あなたの都合ではなく会社の裁量で日々の職務を課されることを了承されているんですよね。

そうしてその立場を、役割を保証されたものなんですよね。

”所属するもの”って、そういうことですものね。


これは正論ではありません。

とはいえ、”自立するもの”としての優先性を手放すつもりもない話です。


アラズヤ商店はアラズヤ商店として差し出せる都合をもってサービスを提供しています。

会社が就労時間を指定して要求することと何も変わりません。


あたしはただの一消費者として、目的のサービスに対してこちらの都合に合わせることを極力要求したくない考えの持ち主です。

そんな考えに対して、横柄なりぞんざいな対応を憚らないものは目的から除外します。

気に食わないなら、除外するのは当たり前のことですよね、たかが”サービス”として。


アラズヤ商店は”都合に合わせてくれないなら要らない”と、正直に言われたい商売であることを憚りません。

伝わるといいんですけど、いえ、伝わらない人には伝わる必要なんてないとすら。


スケジュールを調整してわざわざ来てくれる。

アラズヤ商店にはそんなお客さんこそが適切で、それ以外の人は”逆さま”であることを無自覚で暮らす人として除外したい、そういう商売をすることに疑いもありません。

”スマホで完結”する今の世の中の考え方、”サービス”とか”選ばれる”という選択理由そのものから捻転して要求される”価値”とは真っ逆さまであることを否定しません。


こちらの方針に従ってお伝えいただけるスケジュールにこちらも極力お応えする。

そういう当たり前の関係性や配慮、厚かましく言えば”リスペクト”を以てお付き合いいただけることは、”職業”であるこちら側としての当たり前に保証されるべきインセンティブとして、アラズヤ商店は当たり前に要求するし観察するし、抽出、選別します。

その結果、離れて行かれるお客さんを惜しむつもりは毛頭ない、という商売を選択しています。

だって、お客さんは嫌ならやめればいいだけ。こちらはこれで生きているんですから、尊重するべきはなんですか?

お客商売ならお客さんの要求を重んじるのが当たり前だろ、ってそれ、”逆さま”ですから。

この世ほとんどの人たちはそれが常識で当たり前で計られるべき良心であると信じて鵜呑みにしていまだに疑いすらもなくいることと思うんですけど、残念、とっくにそんな”自惚れた時代”は終わっているんですよ。


”自立するもの”として、その価値を見限る資格があるのは、”自立するもの”のみに与えられる特権だと思うんですね。

それを実行するに値するだけの感謝やリスペクトの交換を侮ることなく関わる意識を欠かさないものとして。



あなたはどんな理由で、お金を払うに値するものとしてそれを選びますか。

それって、今の世の中のほとんどの人たちが縛られる”資本主義経済”、”購買社会”っていう生活様式すべてにおいて見積もられる”思想”とか”人格”みたいなことにつまりは”センス”のことだと思うんですよね。


”目的”における直接的な”価値”なんて、そんな視点や思考やあるいは損得勘定だとか、みなさんがこれまで何より慎重に選び取ることとして疑いなくいたはずの感覚って、センスって、とっくに”逆さま”状態に陥ってしまっているって、アラズヤ商店はとっくに思ってます。


儲からなくて当たり前ですよね。

なにしろ”多様性の時代”らしいですから、これは正論でもなんでもありません。


ただのゆずれない話、当たり前に訪れるはずの”未来”、そこで快適に暮らすためのその準備の話でしかないと思っているだけです。



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