4秒で見放す次元譚

 ”明日、地震くるってよ”


なんてことが割と深刻に、とはいえ所詮はエキセントリックに取り沙汰されていた2月10日近辺X界隈。

ご存じだった方は、……いらっしゃらないですよねわかります。


え、まじで。

それって2月11日の間違いなんじゃないの? 

何時46分だとかってアレなやつのことならさ、なおのことさ。


って、まじで思っていたのはあたしです。

10日、11日は時計を見るたびに”46分”を手繰り寄せ、今か今かと”アレ”が、行動心理学に基づく”恐怖と警戒”を煽る精緻なアラートが物々しく、一ヶ月ぶりに鳴り響くその瞬間をシュミレートし続けたものでした。


アラズヤ商店は良かれとしてお節介なところがあるので、そんな前日から当日に至ってはお出かけいただいたお客さんお一人お一人にもれなく誘導かつ押し付けがましく”アレ”な啓蒙を企てないわけがなかったわけで、

”まじで?”

”本当に?”

”嘘でしょ勘弁してよ”

などとさまざまにご共感しかねる旨のお気遣いばかりを徒にむしり取りまくったものなんでした。

全く迷惑な話ですよね、自分でもそんな自分が気味悪いです。



結果、何も起こらなかったんでやんの。

って、ああみんなアラズヤ商店のこと思い出してくれてんだな、って軽く一儲け。

わかりますかね、こんな戦略だってあろうもんだ、なんてついつい嘯くこの世嫌いの言い草だとか。


この前お話しした通りアラズヤ商店は基本、如何なる事象についても一先ず発動する”反発性バイアス”みたいなことを怠らないタチですので、まあアタマおかしいです。

まともにお付き合いできる筋の感覚ではまともに生き残れるはずもない、っていうか生き残りたいはずもないというのがたぶん本音で、それがわからないし異常に思える人はそもそもとっくにウチみたいな面倒臭いお店になんか来るわけないですし許容できるはずないですし、たぶんつまんないんじゃないですか。

なんて、勝手に決めつけて疑いもなくいるわけなんですけど。


まともで、理路整然としていて、品行方正。

整っていて、落ち着いていて、新しくて、疑わしくない感じ。

そんなトータルな印象において適う気がする”明瞭会計”


そんな観察的で選択的な”おサイフ事情”なんて価値観はとっくにバグってる気がするし、それに適わないことにあまり脅威を思い付きたくないと思ってるんですよね。

だって要するに、なんか信用ならないじゃないですか。

”求める側”、”選ぶ側”がそれとして判断する、したがる欲求の根拠だとか主張だとか。


すごい生意気というか、ほとんど何サマみたいなこと言ってると思うんですけど、そんなことを正常たらしく疑いもなく反発を覚えるあなたのアタマの中こそ、なんですか、”多様化”ですか、”選択の自由”ですか、誰の言い草なんですか馬鹿言わないでくださいよ欲しがるばっかの羊の受け売り文句とかとっくにお腹一杯なんですよ、そういうたかが”損得勘定”を理知的でも常識的でも資本主義でもなんでも一緒、どっかで聞いただけのことをあたかも自分の考えや結論や価値観みたいに気取るのやめてくださいよ。

そんなもの、30年前から底抜け始めてとっくにバレバレなんですし。


これからの世の中、どうなりますか。


そんなことわかるはずないんですけど、たかが生物として察しようとするくらいの知性かせめては勘だけでもいいから働かせる意識くらいないと、取って食われるのってサバンナの牛とかウサギばっかの話なんかじゃないと思うんですよね。

共食いしないのが地上における人類っていう勝ち目、だなんて馬鹿げてる。

都合で見限る社会の奢りには従順なくせに。


そうして傲慢に醸成されて蔓延る”損得勘定”ですか。


”生活防衛”とか”背に腹は代えられぬ”だとかって、それって本当ですか。

そんな建前より、一日三食食べていたものを二食にする必要に迫られる方が余程現実的で実効的だ、なんてことはまだまだ考えにくいことなんですかね。


わかりますよ、その感覚。

日本人って結局、そういう”無自覚な幸せ”にちゃんと片足残せることに所詮疑いはないし、他人はどうあれ自分はそこまでには至るはずはないって、無意識に決めつけて疑いないでしょ。

それを自分のことだと思っているし、自分の成果だと思ってる。

”損得勘定”すらも、自分の選択っていう”成果”だと思ってる。


酷いこと言ってしまうなら、あなたが明日の朝、向かう場所はどこですか。

そうして”成果”を得る場所って、なんですか。

それがあなた自身のことだと思えるなんて、なんだか酷い世の中ですよ。

酷いコントロールがされていると思うし、随分と必要のないものが増えすぎたし蔓延りすぎて慣れすぎてしまったんだな、なんて柄にもないことついつい思ってしまうんですよ馬鹿のくせに。




”選択の自由”って、どういう意味だと思いますか。

個人的には、自分以外のことを取るに足らないこととして開き直る言い草のことだと思うんですよね。

”背に腹は代えられぬ”でもいいですよ、だけどそれってやっぱり”自分”のことでしかないことには違いないんだし、失礼なく言い訳になるつもりならただの言葉知らず、語彙も文脈もすっ飛ばしたかわからないだけの欠落した言い草のような気がするんですよ。


選択される舞台に立つことが”商売”なら、そんなこと言う資格なんてないですよ。

わかってますし、つまりアラズヤ商店は資格のないこと言ってるんだと思います。

その自覚がはっきりあるし、その上で譲る気もないんだと思ってます。


だって、譲ってみたところでどうですか。

世の中すっかりアタマおかしくなってるみたいにしか個人的には見えないし、混雑する時間帯のスーパーに行くの、ものすごくストレスなんですよ。

意味わからないですか。


めちゃくちゃ歩きづらいんですよ。

全員が全員とは言わないですけど、かなりの人が品物と値段しか見ていないし、”背に腹は代えられない”って顔つきばかりでただの状態としてものすごく視野が狭くなってる。

それって比喩でもなんでもなくてただの事実としての有り様、歩き方、立ち止まり方、待ち方、譲り方、片っ端から関わりたくないレベルで”背に腹は代えられない”っていう傲慢さでウロウロして渋滞して見えるんですよね。


同じ値段でも、同じ畑から来たものでもとりあえす”選びたい”んですよ。

だから立ち止まるし、目先に、手に取るものだけに集中するし、隣で同じことを考える人に譲る理由なんて思いつきたくもないし、自分の意図に適わないものはすべからく”損”みたいに思えて辛抱ならない。


これってあたし個人の話でしかないんですけど、”4秒ルール”っていうのいつも意識することにしてるんです。

どうして”4秒”なのかはわからないんですけど、とにかくナスでも青梗菜でもパッと見てすぐ手に取る。

最初に目に付いたものを余計なことを考えずにすぐに手に取る。

不恰好なものでもちょっと傷があったものでも、戻さない。

だって同じく並んでるもの、ただそれだけじゃんとして。


意識して手にしたものから巡る”因果”みたいなことを観察して鍛えるっていうか、つまりは”直感”みたいなことに違いないと思うんですけど、上手くいくことばかりではないしそもそも上手くいくってどういうことだよとも言えなくもなさそうな気がするし、そういうもっともらしくもさっぱりらしくもどうでもいいことも含めて、”瞬間”に反応できる、許容できる”精度”みたいなことをもっと信用したい気がしてしまうんですよね。

それ以外としてもとるなら、キッパリと”無駄”として切り捨てられるようなシンプルさに憧れるというか。


わからないかとは思うんですけど、今の時間や事態の流れははっきり異常だと思うし、ただそれって悪いことではなくて然るべき流れとして起きてることだとしか思えないんですよね。

そういう流れの中で、スーパーにおける交雑をいつまでも”選ぶ”、”立ち止まる”みたいな速度や感度で歩きたいとは到底思えないんですよね、とっくに。



そんなことより、もっと”なんか”あるでしょ。



”なんか”って、なんなのか。

自分自身ではとっくにわかっているつもりでいるんですけど、それを言っても仕方がないくらいには世の中は諦めが悪いというかむしろ自分のことばかりは疑いの欠片すら思いつきたくないんだし、”選択の自由”として、どうにかなることこそを何よりの”願望”あるいは”権利”として要求して主張して疑いないのだし、それをかき集めること、その優劣を競うことで加速する”経済”っていう盤石な現象の普遍性を鵜呑みにして疑う必要性すらないままでいさせてほしいことにこそ何よりも怯えながら従うことより致し方なく日々の動力を得るらしいわけなんじゃないですか。

”背に腹は代えられない”として。



そんな時代、ちっとも幸せなんかじゃなかったはずなのに。

そんなこと、ちっとも認めたくなんかないばっかりで。



って、アラズヤ商店はとっくに思いながらずっと感じの悪いことばかり言い続けてるんですし、それが言い訳や悪口に聞こえるばかりでしかないらしいこの世の中の大半として見受けられなくもないたかが”安堵”に、すっかり辟易してるんですよ。



ウチには”選択の自由”なんてうらぶれた失礼を受け止める甲斐性なんてこれっぽっちもないし、その気もないんだと思うんです。



なにしろ、とっくに時代の先行ってるつもりなので。



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