凶器とするなら大森靖子
“自分には才能がない“
そんな不憫極まりない事実を、いみじくも自らに説明出来てしまう気がするの実に苦しいことだ。
のっけから命を失いかねない、自己愛にすぎるようなことを言っている。
すっかり、移りゆく次元から取り残されるタイプの言い草だ。
そうかもしれない。
あたしみたいな人間はまさしく才能の如く、そんな言い草にぶち当たる瞬間を本気で心の底から恐れていたに違いない。
恐れていた、などとつい癖が出てしまうところがあたしという何より見苦しい心の習性のように感じる。
なにしろ、昨日だって大森聖子さんとみのミュージックさんの対談動画を観て、久々にアタマというよりはもっと反射っぽく致命的な、心というよりはもっと生っぽく核心的ななにかをコテンパンに打ちのめされた気がしたばかりだ。
“自分には才能がない“
などとのぼせてうらぶれたようなことにすら思い当たれない完膚なきまで叩きのめされる憧れの重圧にすっかりひれ伏したばかりなのだというのに。
“ずっと未熟なままでいたい“
“語彙“や“文脈“ って、難しい。
そんな話を、話し出したきりとっくに踏み外したことも自覚できないような有り様の長文に馬鹿して知らしめたかったらしい筆跡はつい先日のことだ。
初めのうちは心掛けて控えていたものの、持ち前の“長文癖“がすっかり暴走した上に、全文をさらに読み返して徹底的にリライトしたことはここだけの話だ。
などと告白めいたことを晒してみたところで仕方がない。
とはいえ、そうしなければいられなかったのは、下手の横好きとはいえ恥ずかしかったからだ。
つまらないし、自分が言いたいことを書きつらうだけの図々しさ、客観性のなさに寒気がしたからに他ならない。
書きたいことを書いても意味がない。
意味がない、とはなんのことだ。
はしたない、とはそういうことだとついつい思ってしまう立ち遅れた次元の言い草。
大森さんは、"共感されたくない“とおっしゃられていた。
なんという、とんでもない救いをあっけらかんと示される御仁であることかと秒速でひれ伏した。
相変わらず、まったくその通りでしかないと、あたしのどこかのなにかがエモーショナルに、ジェラシーこそ爆発寸前に、相反する反応熱がアンビバレントな心のうちを誤魔化したがる臆病を1ミリも逃さぬ狂気の秒速。
“凶器、大森靖子“
格好いい。
“共感されたくない“大森さんは、それを如何に肯定してご自身の人生という“才能“に自分以外のあらゆる理由を当たり前に服従させるか、その明晰な頭脳と破壊的破滅的行動力訴求力をもってひたすらにそれを証明しむしり取り続け、傷だらけになりながら磨き続け実現し続けている。
格好いい。
その語彙は、本来は好ましくない思考の傾向への誤認を示すものであるらしい。
だからどうした、というものだ。
“ヤバい“の一言で、あらゆる感情も言い訳も自惚れも他責も依存も、つまり有り余りありふれて言うまでもないけれど自分ばかりのものとして偽って誇張して居直り言い張るためにただそれだけで十分整うに足りてしまうただの貧相として蔓延するコピペ語彙とは比較になるまい。
大森さんの言葉の選択と文体は、そうでなければならない必然としての正装。
そうとしかありえない“格好いい”のサンクチュアリなのだ。
そんな大森さんも、“ヤバい“とか可愛らしく結構連呼しがちではあるけれど。
“共感されたくない“商売を、ずっと見損なえずにやり続けている。
だからあたしはずっと大森さんのことをほとんど苦手なくらいに思い続けているのだ、というたかが本音をすっかり抉られてしまった。
憧れすぎて、苦手なのだ。
大森さんに触れるということは、いつだってそういうことに違いないばかりなのだけれど。
“共感されたくない“上で、しっかりと認められ、生きる術に昇華した、生き続ける大森さんは“才能“しかない。
“大森靖子“という才能に満ち満ちて、何よりそれを存分に使いこなしている。
才能とはそういうことに違いないと、アタマでも心でもないもっと反射的で生っぽいところをすっかりいたぶられてしまった。
あたしには才能がない。
そんな言い草は、大森さんにアタマでも心でもいちいちそんなところではない反射的で生っぽいところで瞬殺の如く見下されてしまいそうだ。
嫌われてしまうに違いない。
大森さんに嫌われたくないと、ジメジメとそんな感情を昨日からずっと堪え続けている。

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