優しくないなんて優しい


 

この世のすべては逆さま。


そんなことに気付いてしまった気がしたのはまだわりと近頃のことで、“気付いてしまった“などとまったく身勝手なことを身勝手に採用して何食わぬ調子でやり過ごしたような言い方ですっかりやり過ごしたらしく言い逃れるつもりらしく、とはいえそれにしてもそう感じてしまったことは自分ばかりに限ってしまえばかなりのレベルで“確かすぎる“感覚に違いなく、やはり身勝手な感覚なり言い草には違いないのだけれど、現時点において眺める今後一切について採用するべき、採用することになるであろう“感覚の基礎“として踏まえる平野、その揺るぎのなさ、あるいはそんな予感こそかなり揺るぎない感じだったりする。


相変わらず、鬱陶しい書き出しすら自覚的に控えることすらもままならない“自分のことばっか“馬鹿丸出しなんである。


どうしてままならないのか。

その説明は、決して難しいことではない気がしている。

こと、自分自身に対してというベクトルに限ってしまうならことの他そんな感じのはずなんである、なんてまたしてもねじれたような言い草。

たかが準備運動みたいなものだから勘弁してほしい。

自分のことくらい、努めてでも正確に知り得たつもりであるフリくらいしていたいものではないか。

その程度の気取りくらい初期設定として踏まえたいものじゃないか。


子どもの運動会で、楽しいはずの場面において、ええ格好しいが生ぬるく容認されて然るべき希少なご褒美的場面にありつきながら、公衆の面前でいきなりアキレス腱断裂、壮絶に、あるいは謎すぎるほどの滑稽さかもしれない唐突さで開陳してしまうような、曝される“日々のありのまま“みたいなザマをたまたま居合わせただけのたかが他人どもにまんまと認識されて決定されるなどいうとんまなザマには、なるべくですらなく高々自分自身程度のこと、みすみす泳がせたがるものではないではないか。




……えっと。


読みづらいですか。

ですよね。

わかります。


だからって、あなたのその感覚。

“逆さま“ですから。



あたしの文章は心掛けて捻転質で、繰り返しがちで、比喩のつもりがただずっこけただけみたいな質感甚だしいものであることはもちろん自覚しているのだけれど、とはいえそうあるべきというか、そうありたいと願うその切実さにこそ思いの外自覚的感覚的有り様として控えるつもりなど微塵もないタチのもので、それは読み手に対する態度のことなどではなく、書きたがる自分自身への大いなる理解とか許容とか容認といったなにはともあれ的普遍性のようなものでこそあって、そんな平野の開発か均し方のようなつもりでしかなかったりする。

つまり“読みづらい“のはあたしの文章のことではなく、“読みづらい“と感じることに極めて共感的で誘導的な、そうして“読む“ことの必要性を否定したい、訴求性を気取る“他人事“という鬱陶しさを排除したい“読みたくない“だけであるあなた自身のことのはずではないのか、などと極めて横柄なことをあたしみたいな捻転気質はまったくの平常思考らしくもっとも然として根拠に据えて開き直って憚らないものだったりするのです。


なぜ、読みたくないのか。

こんなに面白いのに。


と、あたしなんかは完全にそう思いたい気質として書きたがるだけのもので、たまたまこれを見かけてしまった程度の他人が感じる“読みづらい“のみならざる“つまんない“といったざっくばらんにしてたかが触れて眺める甲斐性もなしみたいな感度程度になど何某とした決定を受けるつもりなど爪先にこびりつくカスほどもなく。


だってあなたたちは、向こう側からやってくるばかりの親切でわかりやすくて優れていそうで得をしそうで人よりも余分に満足を受け取れそうな期待ばかりを連想させる予感させるお節介なだけで嘘臭くて実際嘘ばっかりながらそれを見抜けない中身空っぽは自分自身であることなどこれっぽっちも認識させない意識すらさせない周到さで“その気“にさせてくれるばかりの甘くて麗しいハリボテ情報の洪水にまんまと自惚れて無自覚さはほとんどはしたないレベルだとか、いくらなんでも飼い慣らされすぎじゃないですか。

そんなことくらい、当たり前にわかるじゃないですか。


感じ悪いですか?

読みづらいですか?


あなたが信じている、決めつけたがるつもりらしい“その気“ 

いつもなにかがどこか、逆さまになってるみたいに見えるんですよ。



アラズヤ商店こそ、そんな世の中にとってはきっと“逆さま“で、“その気“にさせすぎるきっかけや習性が強すぎるのかもしれないんですけど、だからってそんな気がすることすら“逆さま“だから、ってちゃんとひっくり返したところから強く保って当たり前に眺めて歩みたいものだと、自分自身のことばっかくらいはわかっているつもり、くらいのつもりではいたいものだと常に感じさせられるものなんです。

“その気“であることを“逆さま“に眺める、正確に踏まえたいつもり、くらいにはちゃんと意識していたいってこと。


まんまとアキレス腱断裂、なんて無様は晒したくないんですよ。

準備運動が役に立つ気がするなんてただのまぬけだとか。

常にアイドリング状態だとか、“SDGsぅ? 馬鹿なんじゃないの“みたいな、地球環境になんてぜんぜん優しくない反社会的待機状態がデフォだとかそんな感じですか。



まじですか。


その理解、“逆さま“だと思うんですけど、どうなんですか。

どうしてそうなっちゃうんですか。



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