近視眼的対極を包むそれとの対極までからなるとっくに見る俯瞰

つまんないんですよね、”松本人志”


って、違いますよ?
彼自身のことじゃなくて、彼にまつわる近頃のあれやこれや、ってことですから勘違いしないで欲しいんです。
若手芸人や子分や取り巻きだとかそんなんでもなく。


”笑ってはいけない”だとか、結局の消去法における”大晦日の定番コンテンツ”としてどんな年もついに最後まで見通したことはなかったくらいには馴染み深くお世話になったことですし、”滑らない”とか”IPPON”だとか”DOCUMENTAL”ですか、盤石として流し見るに足る安定感を誇るバラエティ番組、その話題性か充実度か企画力かたかが迎合かたぶんその全部かとは思うんですけど所詮、くすぐられる期待感のようなものを常に刺激して迎え撃つその”頂点”たる存在感をこれっぽっちも疑わない一視聴者として長らくお世話になってきたものなんですから。



相変わらずの盤石なる書き出し。
いや、毎度の如く読みづらくてごめんなのだけれど。



そんな混乱より先んじて松本人志に一石を投じた”中田敦彦すげええぇ”

みたいなことも個人的には案外興味がなくてですね。





ジャニーズやべえ

みたいなことからの急転直下ですか、いやはやガーシー実刑とかせっかくの手柄どこいった、もさりありなん。だとか。


ときに巷では”二極化”だとかって、近頃なんだかあちこち界隈の方々が揃い踏みの如く心地よさそうに唱えるか吹聴するか食い物にするらしいかはさておき。

美味い、不味い

高い、安い

おしゃれ、ダサい

盛れる、きしょい

なんでもいいのだけれど、つまりそういうことなのかなと。
そんなところなのかな、”二極化”って。
だとか。




ジャニーズやべえ。

一体、何が”やべえ”のか。
今は亡き”ドン”がやべえのか。
言わず存ぜずとしてやり過ごす”中の人”がやべえのか。
わかってますともうやむやですともと言わんばかりの”業界”がやべえのか。
それでも信じたがるか光明を見出したがる”ファン”がやべえのか。


どれがどれでもいいんですけど、そんな”やべえ”かもしれない界隈に、可愛い我が子をしめしめと送り込んで鼻高々にレッスンに通わせた”被害者”なるタレントあるいはそんな卵たる諸君の父母たる皆皆様方。

お前ら、我が子がどんな顔つきで”やべえ”らしいそんなとこのレッスンだとか行ったり来たりしてたんだか、散々眺めて得意げに見過ごして肝心なことにはすっかり蓋して被害者家族気取るつもりかと。

お前ら、我が子のどこ見ながら”選ばれしもの”とかご満悦気取ったつもりかと。


あたしは真っ先にそんな口の悪いこと思ったりしたものなんですけど、そんなこと言ったらまあまあ叱られそうですか。
大丈夫、そんな”影響力”などこれっぽっちも持ち合わせてないんだし。



下衆い合コン、あるいは献上、もしくは迎合。
なんでもいいです。
それが”手段”として見積もられて然るべく計られて”上出来”として目に掛けられて達成される道のりとして見過ごして崇めてこそすべてがままなる”世界”で、その”頂点”を冠してもてはやされる”影響力”をもって”統べるもの”らしきを我々たかが視聴者どもこそはなに一つ疑いもなくえへへあははと毎年の仕舞いにお付き合い願ってきたものだったはずだろうになにを今さら。
なんて。




”影響力”って、なに。

それをそれとして当たり前に鵜呑みにするばかり迎合するばかりの無自覚症状にこそ蓋をしながら、ひょんなタイミングで巻き起こる”エネルギーシフト”に当てられた我ら庶民ときたらなんですか、体よく掌返しさながらに胸すく”ざまあ”か、芸の肥やしになにを今さらよろしく”そんなはずはない”だとか、現金さ丸出しか我よしのこれ見よがしかは知らないけれどつまりはそんな意趣返しの意趣返したる応酬だとかそんな”二極化”だとか。


まじですか。


誰かが気を利かせて連れてきたその日初めて会う相手のパンツ下ろせる喜びかご満悦たる奔放を”影響力”と見逃すか、それが”遊び”で”合コン”でなんとかの肥やしでもなんでもいいんですけど、シンプルに”きっも”って吐き捨てるのか、感じかた受け止め方はさまざまに綺麗事でも手加減でもよしみでも妬みでも非モテでもコミュ障でもなんでも好きにしろなんですけど、とっくに移り変わりつつあるらしい”二極化”という都合活用されて久しい新たなる”倫理”に照らすなら、


なに言ってんだろ一体なにが変わったってんだろ。


なんて個人的にはすっかりすれ違う”倫理”の”多様性”にこそ目も耳もその気配のようなものこそ疑わずにはいられない気がしなくもないわけで、なんにも変わってなくない? だとか所詮つまづく感覚はどこもかしこも珍しくもなんともなく。


”二極化”と想像してたかが個人的に当たり前にまかり通る気がする清潔な倫理という対なる一方の極として秒で思わされる感じさせられることは例えば、”女体献上”だとか、一体いつまでいつの時代の野蛮人みたいな習性を垂れ流して見逃して舌を出しながらまかり通るつもりなのか、それが正気か、口はばったくも実にシンプルにして妥当には違いない当然の嫌悪を気取るでも言い腐るでもええ格好しいでもなんでもなく、

”古臭え”

ものとしてちっともまともに取り合いたくない上で中東情勢の方がよほど気になり聞きかじる中途半端な知識や懸念を”似非もの”だとか嘲笑われるつもりこそ毛頭ないわけで。




”影響力”って、なんのため。

あなたたち、あたしたちは”それ”を”それ”としてとっくに踏み違えているのかもしれない、相変わらずそんな感じのままなのかもしれない、なんてことをいくら仄めかしてみたところで、ちっとも聞く耳どころか”はあ? なに言ってんのかよくわかんないんですけど”なんてまるきり頓珍漢なもの見るみたいな”正常化バイアス”に絡め取られすぎた目でうらうらと見下げられちゃったりするばっかとはどんな不幸かはみ出し方か。


”影響力”なんて微塵もないたかが庶民という”対極”であることに無自覚な頓珍漢なんて、取るに足らない。

その通り。


その通りとして、はみ出してこそ本望とする”二極化”なるそのどちらも含めた一方とその”対極”という積極的拡大を示すさらなる俯瞰的”二極化”という視点に立つ話のつもりは果たして、相変わらずの頓珍漢に映るしかないのか。


影響力とは、そのものではなくそれに晒されるものあってこそ。
いわんやその反応としての分別をや。


事実から離れて眺める事実に対してこそほとばしる”どうして”という俯瞰的な選別に震え上がりながらも胸ときめかせる頓珍漢、どこかにおらぬか。






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