思い出すっぽい“悟り“っぽさ
“目覚め“とか“悟り“だとか、普通に考えたなら、ああでも“目覚め“はアリか。
“悟り”は、はっきりとナシ。
無事であればあるほどアリエナイのが“人生“というワカラナサでこそありそうな。
「わたしも目覚めたいですっ」
なんとまあ、積極的な。
一応人並みには、褒められたほどのことではもちろんないのだけれど、一応義務養育を経て高校なんかはとっくにやる気もなく、気が付いたら人様の髪の毛を切ることを生業とする人生を生きている。
もちろん、寝坊するのが普通で、遅刻魔だった。
そういうことなのか。
“目覚めたいです“
“悟りたいです“
近頃、そんな趣旨の香るサムネイルを授けられた動画や記事をやたらに目にする。
言わずもがな。
もちろんそれはあたしという興味や習慣がかき集めたもの、あたしという“オススメ“を企画するアルゴリズムが見させるもので、つまりあたしは“目覚めたい“のか。
遅刻したくないと、いまだに自らの寝坊癖を呪うものなのか。
とっくに、遅刻なんてしなくなっている。
何しろ定時のようなものに縛られる生き方をあまりしていないからだ。
これについては我ながら恵まれていると日々実感する。
というかなんとなくそういう風に、恐らくは“遅刻“という概念すら嫌すぎて、嫌すぎるあまりそういうものに縛られなくて済むなりの人生を無意識か偶然かただの習性がさせることかはさておき、デザインしたがるというかしてしまうのが“人間“ということではないのか、などと都合生意気なことを案外本気に似たところで思っていたりする。
おかげで足踏みも甚だしく、牛歩の如く進捗に恵まれない人生を生き続けてるとも言えなくもないのだけれど。
そんな馬鹿な。
そんな気がしていた頃もあったが、そんな気から近頃は割と解放されつつある実感に度々唆されて、時間もタイミングもなくやけに眠くなったりする。
単純に、緊張感がない。
ダメな感じに受け止められるかもしれないが、勘違いしないで欲しい。
“心地よさ“のつもりで、努めるまでもなく騙すでもなく、極めてポジティブで澄んだ心境としてナチュラルに降り注ぐような、湧き水を眺めるような穏やかさのことだ。
自分でしたためながらとっくに気味が悪い。
もしかしたら、これなのか? などと思っていたりする。
もちろん感性などではない、それどころかにわかとして都合逃避的な場当たり的な長閑さのようにこそ自覚しなくもないことを言い逃れるつもりこそないのだ。
“悟り“
何言ってんだ早く目を覚ませ。
もちろんなのだ。
そんなものを目指してみたところで、獲得してみたところで何をするつもりなのかしたがるつもりなのかすらわからない。
なんなら、ご飯を食べるにも一口三十回噛むだとか、そんな日々の献身のようなもので繋ぎ止めるべき宿命に縛られそうで、寝返りすらも窮屈なことになりそうだ。
勝手なイメージだ。
そんなトレードオフで叶う程度の“悟り“なら、結構な行列で求められなくもなさそうな気がする。
なにしろどうだ、“目覚めたい“あるいは“悟りたい“だとか、自らそれを望むとか適う気がしてしまうだとか、むしろなんだか課題が多そうな求め方のような気がしなくもないではないか。
目的のために行列することを惜しまない“日本人“という習性が昨今“目覚め“や“悟り“に惹かれるらしい集団意識の変調か単なる流行りかはわからないけれど、ともあれそれは喜ばしき変化ということなのか。
なんでそうまでして、それが食べたいの。
行列を目にするたびに、そんな心無いことを思わずにはいられないタチだ。
なんなら、行列を仕出かしてまでそれにありついたとある人物にその感想を建前でも尋ねてみれば、「期待していたほどでもなかった」だとか、ただ目にして耳にするこちらまで気が詰まるような思いに駆られなくもなかったりすることがしばしばだったりする。
なんでそうしてまで。
ついつい思ってしまう。
“どうして?“という実にシンプルな疑問のことだ。
“目覚めたい“
“悟りたい“
どうして?
それをして、なにを期待するのか。
体よくそれを叶えたとして、「期待していたほどでもなかった」とか言われたら、たぶんあたしなんか恐れ慄いてたかが自分ばかりの牛歩みたいな人生を生きることすらなんだかおっくうになってしまいそうだ。
我ながら嫌なアルゴリズムを見せつけられている。
こんなにも遠ざけたような物言いを重ねながら、心の奥底ではちゃんと求めている。
恥ずかしいじゃないか。
はっきりと恥ずかしくなってしまう。
けれど、これだけは言わせて欲しい気がしている。
嘘ではない、あたしは“行列“しない。
並んでまで、必要以上に待たされてまで何かを手に入れたいとか仲間に入れて欲しいとか考えたことは、たぶんこの牛歩のような人生の中で一度もない。
スーパーのレジ(頻出)とか、免許の書き換えだとか、そういう都合要求される“行列“的場面は仕方ないものとして省くとして、一度もない。
単純に、なんだか偽物を掴まされそうな気がしてしまうのだ。
欲しがる上で、求める上で“行列“という手段を経ることで叶う“目的“というその欲求の、実は案外カジュアルな課題のようなものがすり減らす、あるいは見損なわせるその欲求そのものへの“瑕疵“みたいなことを自虐的に想定してしまう。
行列する人々に対してではない、よもやそれに加わろうとするらしい自分に察するだけのこと。
それに引き止められ続ける人生をずっと生き続けている。
“目覚める“という都合はとっくに手に入れている。
なんなら、起きなくてもいいくらいの暮らしになってしまった。
今日も寝過ぎて腰が痛いほどだ。
そういうことではないのか。
たとえそうでも、あたしにはなんだか似たようなものに思えなくもないのだ。
“悟り”となると、さすがになんだか手強そうだ。
空海とか最澄とか、坊主の予感ばかりがやけにほとばしる。
去年の三月にいきなり坊主にして、一年かけてようやく寝癖たまわる理想のボサ髪に復帰したというのに。
坊主の方が楽な気がした。
実際にはマメな手入れが必要で、行く先々ではカジュアルな偏見の視線に塗れた。
もちろんあたしばかりの勝手な事情に違いない。
一年かけてボサ髪になったら、“格好いい“と明らかに言い方に詰まるようなお世辞を度々たまわるようになった。
ただの癖毛アフロを取り沙汰させて実に申し訳のないことだ。
しかしながら、実はなかなかに気に入っていたりするのだ。
楽だし、ボサボサが好きだからなんだか色々誤魔化せそうな感じが“牛歩“みたいな性分にあっている。
要するに何かが捗るというか、単純に相性がいいのかもしれない。
“悟り“
そのくらいで勘弁してはくれないだろうか。
“自然がいい“だとかではなんだか口幅ったいくらいのもので、“生まれつき“だとか、“ありのまま“はなんだかダサいかもしれないけれど、つまりは“原点感“みたいなことだと思うのだけれど伝わるだろうか。
ああ、自分こんな髪質だったっけか。
そんなことが“悟り“であるはずがない。
そもそも望んだものではないから、それでいいみたいな感じで思うことだ。
中学生や高校生の頃は毎日手を焼かされた。
あたしはちっともイケてない方の生徒だったけれど、自分にはええ格好しいの生きづらい性分を隠せない可哀想な子どもだったので、色々苦労したのだ。
自分なりに。
思い出したのかもしれない。
自分の髪質がこんなであることを思い出して、今頃になってようやく結構気に入っている。
こんな髪質であることは子どもの頃からとっくに知っていた。
受け入れたのかもしれない。
違う、嘘言いましたすみませんでした。
“思い出した“
あたしは率直にそう感じていたりする。
そこにはなんとも口幅ったい、ええ格好しいでイケてない牛歩の如く捗らない“人生“がどかりと横たわるように実感らしく横たわっている。
あたしらしくくだらないことでやれやれと思うことだ。
あたしっぽい“悟り“っぽさとして、ちっとも違和感のないことだ。

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