イケテナイ予言始人サピエンス
ははぁん。
さては、言い訳の準備を始めましたね。
なんて、たかが外野が卑怯なことを思い付きたがるものではないんですけど、とはいえ近頃あちこちで垣間見る? ような気にさせられなくもないそこはかとなくでもない“掌返し“みたいな言質の数々だとか。
嫌な言い方ですよ、我ながら。
何がって、例のやつ。
“2025年7月5日“ ですよ。
ノストラダムス、Y2K、ホピの予言2012、だとかいわゆる“終末予言“と呼ばれるものは案外小刻みに数えられがちなものらしく、もちろんあたしはその一つ一つにまんまと感化されて存分に楽しみつくしてきたタイプの人間なんですけど、いや、ノストラダムスは終末どころか結婚をして子どもを授かった年、つまりよほど個人的な都合をゴリゴリと刻んだ記憶に残る代表みたいな年だったので、むしろそれとしてそれどころではなかったかもだったり。
今日もこうして具にもつかないブログを綴ってます。
ということはアレです、誰もが鼻からオナラしてるみたいな顔つきで言うやつ、“結局、何も起こらなかったよね“って、何もしてないけどごっちゃんみたいな言い草か勝ちっぷりみたいなものにまんまと帰結しているわけでつまり、ちぇっ、なわけで。
“終末予言って、つまり願望でしょ。人生イケてない界隈の人々による“
なんて、必ず思うけど思うだけで絶対口には出さない人たちに言わないだけで完全に常に思ってます、みたいな視線をガッシガシに浴びせられまくりながら、“絶対にバチ当たればいいのに“ってこっちこそ完全に負けすぎみたいなことをジリジリと思わせられながら結局、相変わらずまたしてもまんまとハマって楽しんでしまっていることこそ、紛れもない事実でこそあるわけで。
全然不毛じゃないです。
とっくに元取ってます。
嘘です、そもそも“予め“なものですから所詮、元も子もありませんてば。
なんて。
とはいえ個人的にはいよいよ近頃に至って、一端のキリを見たような心境というか、端的に言ってしまうとつまり、“なんかシラけちゃった“みたいな感じでいたりするところがなくもなかったりするんですよね。
“南海トラフ大地震“
“フィリピン沖海底火山噴火“
“巨大隕石衝突“
この度の“終末予言“の主軸を張る押しも押されぬ三羽烏といえばこんな感じ。
あたしはかなり前から“隕石説“に取っついて支持するものだったんですけど、近頃に至ってまさしくごらんなさいのごとくその手の界隈でダントツの支持を獲得しつつある現状に、なるほど鼻からオナラが出ちゃいそうな気分をジクジクと噛み殺していたりするとかしないとか、つまりはまあまあ自惚れた信者的意地の悪いフラストレーションを燻らせているとかいないとかそんなことはまあどうでもいいのだけれど、つまるところ、“なんだかシラけてきちゃった“なんて誰よりも薄情みたいになことを隠す気もなく勝手に独り言のごとく漏れ出して自分で自分が気味が悪くて気色が悪くて仕方がないだとかなくないこともないだとか。
“隕石、衝突するらしいぜ“
らしいんですけど、近頃聞き齧ったところによりますと、“集合意識が高まるとその事態を回避できる“といった“おいおい“みたいな言質がそこかしこで散見されなくもないだとか。
おいおい。
なんですけど、違う意味であたしもなんとなく思ってたんですよね。
“何にも起こんないでしょ、どうせ“って。
勘違いしてほしくないのは、“鼻からオナラ“的な話ではないってことなんですよね。
“集合意識“
なんじゃそりゃ? なんですけど、とはいえわからなくもない気がするのは例えば、“気運“だとか、そんな言い方もあったりするわけじゃないですか。
あたしは神社に参ったり、神様のこと調べたりすることが案外嫌いではないタチであることもあって、なんか考えちゃうところあるんですよね。
例えば、“どうして地震が起こるのか“だとか。
アタマおかしいと思われても仕方がないことではあるんですけど、なんかそういう“因果“みたいなことを割と否定できない感覚みたいなことが割と無視ができない性分で。
そんな意味においてですよ、どうして日本に、2025年にそんなことが起きてしまうのか。
起こる気がしてしまうのか、なんなら“願望“らしく期待してしまうのか。
“集合意識“が何かは知らないんですけど、こと日本、あるいは地球でもいいんですけど、それを一人の人間として考える。
あたしはちょっとアタマがおかしいので何かにつけ物事はすべて“フラクタル“に観察して説明できる、って心のどこかで完全に信じきってるところがあって。
人間、悪いことをすれば叱られるじゃないですか?
叱られるとわかっていれば、気をつけるか、誤魔化そうとしたりもするじゃないですか?
叱られて反省したり、反発して捻くれたりとかするじゃないですか?
そうして幸せになったり不運に見舞われたりもするわけじゃないですか?
なんとなく思うんですけど、“集合意識が高まるとその事態を回避できる“って、それって希望のある話なんですかね。
もちろんそうかもしれない。
だって、災害や天変地異でくらしがままならなくなる、家族を亡くしたり、文明が立ち行かなくなるだとか、考えるだけでも恐ろしいですよ。
だったら、どうしてそんなことが起こるのか。
起こってしまうのか。
“悪いこと“
してるからかもしれない、っていう可能性も見逃してはいけないはずなんですよね。
ということは、“回避される“ってどうなんだろうって。
悪いことをしてもお咎めなくやり過ごせるということなんだろか。
いやいや。
それって、一番“不幸“なことじゃないですか、その人にとって。
はたまた、“地球“にとって。
“人類“にとって、見過ごせる、やり過ごせるということは。
“終末予言“
もちろん、イケてない人生への吐き捨てっていうのも一理あると思うし、でもそればっかとすることは単なる悪意にも似てむしろ想像力に欠ける気がしないでもないし、もしかしたらイケてないとするその実感に、やむにやまれずも“憂う意思“のようなものが思わせるものもなくはないとしたら、どうなのだろう。
事態は避けられる。
とはいえ、必ず違う形で何からの知らしめがなされることはむしろ、恵まれて罷りなるその人自身のためであるはず、ともいえなくもないのではなかろうか。
何だか説教くさいことを言っている。
予言かぶれのただの馬鹿なのに。
人生イケテナイサピエンスのくせに。
でも思うんですよ。
恐ろしい事態は嫌だ。
でも、何事もなく見過ごされることは、何よりの不幸のような気がしなくもない。
ということ。
“集合意識“
なんて言い草では何だかあまりにもふわふわとしすぎていて、我ごとのみとしてもなんだか、無責任な気がしてしまうんですよなんだか。
イケテナイサピエンスの分際でなに言ってんだか。

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