象徴を着た世代、象徴を脱ぐ世代のミクスフューチャー
宇宙人がお揃いで着てるアレ、ユニクロだから。
冗談のつもりでときどきそんな話をするんですけど、イメージ伝わりますか。
宇宙人が着てる、”アレ”
宇宙人と言われて大概の人がイメージする姿って、アタマが大きくて目も大きくて鼻と口はやけに小さかったりあるいはそもそもなかったり、カラダは細くて小さくてつまりバランス的にはアタマでっかちで、ボディスーツ的ピタピタ感に身を包んだ……
の、”アレ”です。
アレって、ユニクロだから。
あたしが誰構わずやらかして憚らないトンデモ話の導入として、掴みとして”ユニクロ”は格好のパワーワードとしてその威力を遺憾無く発揮してくれるんですけど、あたしの”トンデモ”はふるわない。
悲しいです、嘘じゃないのに。
あたしが語る”トンデモ”における”ユニクロ”って、つまり”概念”ですから。
いや、きっとお話を聞いてくれる方々もそんなことくらいきっとわかってくれているはずとはもちろん思っているし、その上で”面倒臭えとか思ってんだどうせ”って、あたしはまあまあ腐るわけなんですけど。
あたしは若い頃はアパレルやっていたのでもちろんファッションが好きですし、おしゃれかどうかはわからないですけど幾つになってもそんな興味を失うつもりはないっていうか、失えないっていう依存度高めの”謎おじ”化甚だしく人目にかさばらないよう自覚的にファッションを楽しんでいるつもりではいます。
一定年齢過ぎたら流行りは関係ないし、むしろ流行りを追えば”年甲斐”っていう違和感を徒に深めるだけですし、ともなれば許される感度は”蓄積”だとか、幸いにしてあたしらの世代が過ごしてきた時代はトラディショナルもアメカジもパンクもグランジも何もかも、それぞれのジャンルやスタイルとして独立したムーブメントとして体験できたので、90年代以降のミックスカルチャーに見る許容や改変といった合理性とは違う、面倒ではあるけれどめっぽう丁寧な”蓄積”を過ごせる”幸運”に恵まれた世代だったはず、とは思っているわけなんです。
”一億総ユニクロ”
まさかそんな時代が来るとは思ってもみなかった。
ファッションに委ねた”個”たるアイデンティティの発露は何処へ。
なんては大袈裟ですか。
とはいえ時代の変化は”個”なる価値観すら見直させたのかもしれないし、ファッションそのものに期待する意図や目的も架け替えられたのかもしれない。
一体何が変化したのか。
日本が貧しくなった。
昨今、様々な側面で遠因ならざる深刻さで言われがちなことですけど、それってあくまでも構造的、物質的な話でしかない気がするし、日本人の現状はそうなのかもしれないだけで、そうではない別の国の人たちも同じ時代に暮らしているわけで、大雑把な言い方をすれば”人類”だとか、そんな切り取り方においてはあまり正確な観察とは言えない気もしてしまうわけなんですね。
これみよがしにブランドロゴがプリントされたTシャツなんてむしろ恥ずかしい。
かつて憧れたはずの”ブランドTシャツ”が、いつの間にか野暮ったい存在になってしまった。
その変化って、何が原因だと思いますか。
貧しさが思い付かせるせめてもの強がり?
まさか、そこまで卑屈な態度に腐ったメッセージという気配は感じないですよね。
っていうか、むしろ無駄な見栄や気取りがなくてリラックスした印象すら受けなくもないだとか、もちろん本当はもっと欲しいものはあるけれど高くて買えない、お金がなくて買えないだけって、それも本音には違いないんでしょうけどそれってやっぱり物質的な嘆きには違いないはずで、それを本気で人生の不幸だと考える人はむしろとっくに今の時代に乗り遅れているのかもしれない、なんても思えなくもない気がするんですよ。
そういう古びた感覚を、とっくに手放しつつある自立に向いた気配を感じないですか。
一体、何が変化したのか。
正確には道半ば、っていうかまだまだ入り口の入り口には違いないんでしょうし、つまり、”一体、何が変化してゆくのか”ってことだと思うんですよね。
” 宇宙人がお揃いで着てるアレ、ユニクロだから。”
もしそれが人類の行く先とするなら、あなたはどう思いますか。
幸ですか。
不幸ですか。
そんな理解ばかりで捉えるべきではない時代はとっくに訪れているはず、っていう話をいつだってしたいつもりでいるんですけど、”面倒臭え”って思われがちであることはシンプルにカナシミです。

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