背中合わせでも分ける道はあって


 目に映るものは一緒でも、その受け止め方や理解や思いつく興味みたいなものは人それぞれで、とは言え”二極化”だとかってそんな言い方が近頃では目新しくも耳新しくもない気がすることもあながち、侮れない気もしなくはないだとか。


書き出しから長文。


悪い癖であることは自覚しながらとはいえ、それも許容できる人とそうではない人、もっというなら案外嫌いでもない人とまったく受け付けられない人、なんてつまりは”二極化”って、今の世の中には当然と言えなくもなさそうな構造的成り行き、あるいは傾向として明らかに仕組まれた計画的成り行き、なんてちょっと偏った言い草に化かすことさえ出来なくもなさそうな現象として歓迎される、とっくに逃れられない人類の性質みたいなものがさせるべくしてさせることのように思えなくなかったりもするんですよね。


って、また長文。


ブログなんて書いても今どきのほとんどの人が”活字離れ”甚だしいらしいことは言われて久しいですし、”活字好き”と自認する人たちも言い方を変えれば積極的”欲しがり”として、好き嫌いだとかその思想や傾向、信仰や環境に乗じてまんまとコントロールされがちというかされたがりがちというやっぱり”二極化”なる啓蒙に比較的相性が良さそうな性質を差し出すもののように感じさせられなくもないだとか。

つまり、こんな書き出しを書き出しとて好む人と嫌う人は、意図に均して瞬間で隔てられる、ということで。


これからの世界はそういった傾向や性質をますます狡猾に使いこなすはず、ということで。


それが悲しいっていう話をしているのではありません。

むしろアラズヤ商店は、そういった”傾向”みたいなことをうやむやにしても一定の顧客によって保たれて潤う”商売”というものを、かなり早い段階から見損なってきたつもりでいるんです。


世情から離れて独自の判断の中で常に価格帯を見直し、それにそぐわない”理由”でアラズヤ商店を訪れていた人は程なく離れていったし、あるいは昨今での”社会問題”とすら言わせない何やらかの画策の気配すらしなくもない例の”流行病”だとか”お注射”だとか、そんな他愛もないことすらもいずれかの形で”瑕疵”らしく商売を快くは過ごせなくさせるものとして立ちはだかることを予見して、”他愛もないこと”として跳ね返す意志を明らかにしてここ数年を過ごしてもきたわけなんですね。

そうした理解や考えによって、間接的な様々な形をもって離別を引き寄せたことは言うまでもなく。


様々な偏見を受けることもあったのかもしれないですけど、それってとても瑣末なこと、近視眼的な建前でしかないとアラズヤ商店的には思っているんですよね。

だって、人の思考にはその人を左右するある程度の傾向や根拠って、やっぱりあるものじゃないですか。

”属性”っていう、つまりその人それぞれのことだとか。


世間的に危ぶまれること。

それに興味を示さずにいることは、ある意味社会的には無責任な態度かもしれないんですけど、そうではなくて、一定の観察や情報の咀嚼、理解、そうして踏まえるごく個人的な見解として導き出す”態度”というものはそれぞれに尊重されて然るべきものだとアラズヤ商店は考えるし、あいにくそれが相容れないのであれば、否定するでも説得するでもなく、お互いの考えを尊重して道を分けることを選択するべきだと思うんですよね。


”髪を切る”

というただそれだけの目的に限って、そういった”傾向”の違いをうやむやにして関係を保つことは、直近の目的はやり過ごせたとしても、その先々で、いずれは些細な心許なさや不理解や摩擦を生むことになるような気がするんです。


何より、アラズヤ商店は”不合意”に敏感で、折り合いが必要な関係に感謝を突き合わせて引き攣ったような笑顔でそれを告げるような”お付き合い”を、これっぽっちも快く思えないからなんですね。

なにしろ、”ただそれだけの目的”という動機や目的で繋がる関係なんて、これから一気に崩壊してその目的や価値、備えるべき理解や態度、つまりは関係性っていう良識そのものを当たり前に見直すべきということに多くの人がようやく気付き始めることくらい、当たり前に知っているからです。

とっくに気付いているからなんです。


良かったんですよ、”ただそれだけの目的”でも。

これまでの世の中は。

それでもお金がいただけるなら。

不愉快でも割り切ってお付き合いして儲けになれば。


だから、たかが”選択肢”として扱うことをお客さんこそ憚らなくなったんですよね。

”お客様は神様です” なんて悪質な啓蒙を鵜呑みにして。

損得とか評判とか、均して然るべきただの”目的”として。


今の世の中の便利さ、そうしてあちこちで衝突する”不機嫌さ”の原因って、何だと思いますか?

つい先日も、配達時不在で腹を立てた配達員の方がたまらず配達物を力一杯殴りつける動画がXでリークされてました。

個人的には、そういった事態そのものだけをあげつらって、賛否や善悪を突き合わせる向きの言論もどきってあまり好きじゃないんですよね。


単純に、”リスペクトの欠如”っていう”目的先行社会”の不理解や価値観の誤認を見逃して要求してもまかり通るとされる”便利”や”サービス”だとか、我よしなる”互いの都合”ばかり仕込まれた”すれ違い”が不幸にも衝突して着火する痛ましいストレスの発露でしかない気がするんです。

ごく当たり前の話、倫理を見過ごした話でしかない気がするんです。


”一億総ユニクロ化”

”宅配ストレス”

たかがそれぞれの事態や傾向として見えても大別”二極化”という選別は同じく潜んでいることを見損なってはいけない気がするし、それを分ける根拠が思いのほかシンプルな”感性”の問題でしかないことこそ見失ってはいけない気がするんです。


アラズヤ商店はもっぱらそんな主義として、見る人から見れば大層悪どいか失礼なことをしでかしている風にも見えなくはないんだろうなあとは、覚悟するものなんです。


もちろん少しも苦しくありませんし、道を分けるのは残念なことではありますけど、これまで通りの世の中ではもう立ちゆくはずがないことくらい、快く生きてなどいけないことくらい当たり前にわかるので、たかが自分ばかりの判断くらい、疑いなどあるはずもないのです。


いつまでも立ち遅れたままの”感性”に巻き込まれても致し方ない”商売”なんて、そんなものを許容できる”感性”なんて、もはや”時代の足枷”でしかないと思っているんです。


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