ヤバい観察と蔓延る語彙
”ヤバいよね”
そのたった一言で、世間の多くが失ったのかもしれない。
その万能さを歓迎し、引用し、乱用し、凡庸に蓋をしてあぐらをかいたのかもしれない。
あの店ヤバい。
とっくに言われ慣れている。
そんな気がしている。
それが事実に添った謂れである必要はなく、むしろそうではないかも定かではないからこそ決定づけたがるある種の共犯性、誘導性をまとった”言質”というヤバさ。
そんなものにはとっくに慣れている。
だって、日本人だもの。
”おしゃれ”イコール”ダサい”という図式の信憑性にかまけた。
ついでの足で、”ステレオタイプ”を看破した。
それを根拠に、”ヤバい”という評価と選別の”無責任性”と妥当なる”無価値性”を決定づけてしまいたいと思っている。
アラズヤ商店がアラズヤ商店たらしめる積年の言い掛かりに違いない。
”あそこの通りの角のとこ、カフェかなんか出来たっぽいよね?”
知らんがな、の暖簾を分けて臆面なく結論を引き連れた言い草。
「知らんがな」
本当はそう応えたいのだけれど、そんなことでは秒で破綻してしまう社会性、言えるはずもない。
「美容室かもわからんし。見たとこそんな感じとか知らんけど」
回答として卑怯にして秀逸。
誰も困らないし嘘にもならないし何しろ、どっちだっていいなりにカテゴライズとしてまったく同質のディテールをとりがちな”類”をかいつまんで聞きかじるとして万能回答。
さりげなくコミュ力お化けを気取る初級編とでもいったところか。
カフェ? 美容室かもわからんし
共通点は、なに。
簡単だ、”わかりやすい”んである。
”なんだかとりあえずおしゃれな感じ打ち出してんだな”といったフワッフワな了解と既知にたるディテール、つまり”わかりやすい”んである。
”なんだかおしゃれっぽい”
その期待は、夏の夜の街灯に戯れる蛾の如しなんである。
その灯さえなければ、数多の蛾をはじめその他の虫たちはせめて、一夏のアバンチュールを完遂して今世の使命を、たかが虫などとは言わせないゴージャスな一生を見事に遂げて尽きたのかもしれない。
しかしながら残念なのは、たかがそれぽっちがバチバチと際限なく爆裂なる突撃死を遂げようと、虫たちは後から後からその指名を果たさんとして現れては消え羽ばたいては消えとしてまったくキリがないらしいんである。
眺めるものから見れば、”そうなんだ、へえ”くらいにかまけても妥当であるかの如く。
あの店ヤバい。
そうですかそうですか。
そうですよね、なんとなく言いたいことはわからなくもない気はします。
しかしながら問題はその言質。
”ヤバい”
その語彙の曖昧さゆえに自覚なく蔓延る鈍感さをお許しいただきたい。
あるいはなにが”ヤバい”のか、観察して揺るぎないその決定の根拠を具体的に示していただきたい。
などと、まったくひねこびたような自虐的考察を打ち消しながら生きながらえる”ヤバい店”として、そんなの誤解だよ、とまでは求めないけれど、その曖昧さくらいは真摯に紐解いてはもらえぬものだろうか。
とは、もちろんアラズヤ商店のことなどではなく、それを見るあなた自身が思いついた心象に足る正真正銘の観察、それを表現する”語彙”のことなんであって。

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