近頃やけにバブルっぽい”スピリチュアル”についてタロットに聞いてみた
好きなのに、素直になれない。
まさか。
もうそんなお年頃ではちっともないのです。
って、一体なんの話をしているつもりなのやら。
そうです、そんな話ではちっともないのです。
とはいえ、あるいはそんな話よりはよほど執念か信心に近いものでありそうな気がしなくもない、のは趣味とか習慣とか培われてきた価値観だとか、人それぞれに様々あろうものなんですけど、詰まるところ“もうそんなお年頃では“的欲求というものは思いの外、お年頃的要因にもとづくものではなくもなさそうだよなあ、そんな気がしなくもなかったりもするよなあ、なんて相変わらず歯切れの悪い長文からスタートするものなのだけれど。
“二極化“
“風の時代“
などといった文言がそこかしこで散見されがち、というのも一部の割と普通の方々の心象におかれましてはまだ近頃のことのように感じるかもしれないことが、あたしのような趣味嗜好あるいは趣味思考偏重甚だしいタイプの人間にとってはすっかり耳にタコかほとんど詐欺の口実かなにかにしか聞こえなくもないほどにはすっかり耳にも目にも馴染み切ってほとんど腐りかけらしく飽き飽きとして受け流す“トレンド“その片隅における、的な廃れたトピックあるいはセンテンスに成り果てたものではありまして。
好きなんですよ、基本。
美容師が“カリスマ“を名乗り、整体院がアントレ的需要で乱立し、タピオカがアミューズメントにまで昇華された後その後はことごとく唐揚げ屋と化し、アイドルは地下から国民的現象へと上り詰めながら離合分散あるいは味噌糞一緒の如く趣向をカチ割りせめぎあいを繰り広げながら然るべき生理分解に辿り着いたものらしく時期も折り合いもよろしく地下に帰るものらしい、だとか。
そんな逐一を眺めるとよくよく似た感じを、近頃の“スピリチュアルバブル“にももちろんの如く察して眺めないはずはなく、先んじて申し上げました通りのあたしのような気質のものからすれば、“あれ、果たしてかつてからこんな感じでありましたでしょうか“といった呆気に取られるにも似た吹き抜ける隙間風にも似た心許のなさを都合思い付かされないでもないわけでありまして。
長々と自惚れたような見下ろしたがりのようなことをつらつらと申しております。
感じ悪いのでさっさとタロットに聞いてみようかと。
またしてもルーティンのシャッフルのうちにそれぞれがジャンプで飛び出て参りました。
シャッフル下手くそなんですかね。
まあ、上手くはないですけれども。
昨日は呑気にお休みしてまして、日頃からお世話になっている神社さんに参らせていただく足にこれも連れてったんですよね。
カード。
気持ちの悪いお話ですよ、身勝手な思い込みとか果ては信心だとか。
その気になったもの勝ち、真に受けたもの勝ちみたいな呪い気質だとか。
なんて、悪口や自嘲はそのくらいにしておきまして。
メインカードは“カップのナイト、逆位置“
さっそく神社さんの効果アリ、なんてほくそ笑むようなことを思ったり。
“良い知らせ“とか“約束“、“誠実さ“だとか、つまりは善良な、前向きなメッセージ性を表す意味合いの多いカードなんですけど、そんなものが逆位置として現れた、と。
補足するアドバイスカードは“ワンドの8“
“勢い“、“スピード感“といったつまりは活発な意思とかその結果もたらされる良好な成果の予感だとか、割とポジティブな現状も含めた期待感に寄ったカードなのかもしれません。
といったカードの基礎情報に基づきながら、あたし個人のまったくの独断と偏見とシンプルなファーストインプレッションこそを重んじる勝手気ままなリーディングを始めたいと思うんですけど。
ジャンプカードですよ、これでも。
それにしてもこの如実さに驚きを隠せないというか皮肉を感じずにはいられないというか、そんなことすらあたしという偏見に過ぎないのかと思うとなんだかがっかりしてしまうんですけど、とはいえこういったカードリーディングの不思議さか単純な面白さというのは“偶然たる必然“のようなことを如何に見通して許容に足る理解を紐解けるか、というある種の加速装置的効果とでもいいましょうか、思考の後押しとして偶然に現れる必然という助力こそを促してくれるものだと思っているんですよね。
だって、偶然がただの偶然としか思えないなんて、たかが生まれて生かされるだけの人間としてむしろ傲慢な気がするし、わざわざそんなつまらなそうな理解にみすみす縛られたがる必要なんてないでしょ、なんて個人的には思えなくもないのだし、積極的に楽しむ意思を働かさずしてむしろ偶然も必然もあったものではなかろう、なんて欲張りで味わいたがりみたいな積極的な見栄こそをみすみす手放すつもりなんてこれっぽっちもなかったりするわけなんですよね。
そんな意思偏重な意図において読み解くには……。
見てくださいよ、ナイトの横顔。
まっすぐ先を見据える真剣そのものといったその顔つき。
我に授からん、とでも言いたげに構えられたカップ。
“ふさわしい知恵をちょうだい“
なんて、積極的に過ぎる姿勢のその傍で振り返る馬の心境こそ、思うげな視線だとか、従順ながらも慮るらしい何かしらの気配を感じさせられなくもないだとか。
“矢継ぎ早“
これみよがしにワンドが降り注ぐ様を受けてつい思い浮かんだものなんですけど、それが雨後の筍の如く跋扈する昨今の“スピ系チャンネル“バブルの様相のことなのか、そんなあちこちに増殖する“スピ系信者“のけたたましさのことなのか、どちらとも言い逃れたくないか綯い交ぜでも結構の如くの有り様だとか、なんだかすでにあたしの言質こそ明け透けに批判的であるらしく見透かされかねないだとかそんなことはさておき。
群がるような勢いで加熱する“スピ熱“
そんなことすら、そんな一部の界隈で認識されるか偏見で扱われるか程度のムーブメントに過ぎないことはもちろん承知の上で、その様相の“異様さ“にさらなる偏見を深める人が増殖することは火を見るよりも明らかなはずで、“陰謀論ですね、わかります“的な言論か思考の隔たりのようなものこそいよいよその反発を深めること必至、だとか。
近頃同じく流行りの“予言“や“予知“界隈も、突き詰める先で必ずや突き当たる“精神“的解釈という元よりの信望的課題という資格共通項を結ぶわけで、“なぜ?“とか“どうして?“あるいは“どうしたら?“といった行き詰まる疑問か不安の解消のために必須となる“根拠“として求める何かしらを許容するにあたって欠かすことのできない“信心“を捧げたがる、つまりは“許容“するなりの言い分という需要が生みだす相似形というそのバリエーションということではないのかと個人的には平たく感じさせられるものなんですよね。
降り注ぐワンドが右肩下がりであることに着目したリーダーの方がおられました。
なるほどまさに、とあたしはいたく共感させられたもので、つまりはこの度においてもその傾向は観察として見過ごせなく感じさせられるものなんです。
ゆくゆくは共倒れ、とまでは言い過ぎかもしれないのですが、それにしても近頃のスピ系界隈の従順たる羨望か迎合かつまりはその気色の悪さはなかなかのもので、“なぜ・どうして・どうすれば“といった質問攻めの雨あられ、まさしく降り注ぐ右下がりのワンドの如く、その依存的帰属的無思考無自覚願望などと揶揄すればキリがないようなその自発性の低さか思考性の怠慢、とでもいった信望するものに対する全振り感、依存的解決願望のあまりにふるまわさせるものらしい無思考性か自立思考性の欠如という有り様、その欲求か体質の旧態依然とした醜悪な価値観の無変容さながらの有り様にこそ辟易させられるものなんです。
まったく酷い言い方には違いないんですけど。
2025年7月、津波で多くのものが流される
近頃話題の多いことなんですけど、その原因についての謂れはさまざまで聞く人それぞれの理解か承知にかまけて言う側は言いたい放題か良かれとした進言かはさておき、受け取る側こそすっかり夢中の如く、予言か宇宙か体内記憶かと右往左往で情報を取るだけでも忙しい有り様にあって、それぞれがそれぞれなりに思い至る節もなくもなく言い争うものらしいだとか。
“自給自足“
“備蓄して備える“
“知ることで未来の変化を促す“
様ざまな見解や思考性があるらしいのだけれど、どうしてでしょうか個人的にはそのどれ一つをとっても“解決“として現状やむにやまれぬ方策として覚悟の如く受け入れたがることに今一つ共感的になれないというか、なんならある種の反発こそ思いつかされずにはおれないというか。
“なぜ・どうして。どうすれば“
それをきっかけとして求め伺う予言か予知か精神性かは人それぞれとは思うんですけど、なんだかなにかがおかしい、と湧き上がる違和感のようなものこそを誤魔化せないのはあたしだけですか。
“なぜ、自給自足を目指すべきなのですか“
“どうして、備蓄して備えるべきなのですか“
“どうすれば、知れるのか。知るべきなのか“
そうして想定されるらしい未来に、なにを望むつもりなのか。
伝わりづらいかもしれないんですけど、すべての人がそうだというつもりはないけれど、それにしても目に余る有り様として、“教えて欲しい“という欲求のみに立ち止まるばかりに見受けられがちな“スピ系“という大半の乞いたがりらしきみすぼらしさが個人的には本当に苦手で、たぶんというかほとんど嫌いなんだと思うんです。
個人的には自給自足の必要性を理解はするけれど実際にはその有効性への疑いは晴れないし、実践するつもりもないし、備蓄の必要性もそれと似たこととして大した意味も有効性も期待できる気がしないし、むしろ依存から自立するタイミングとして立ち遅れるだけのような気すらするし、知ることで、意識が変わることで未来は変わる、という精神性に全体性を求めることにこそ不健全な精神性というコントロールを思い付かされないでもないんです。
間違ったことを言っていると思われても仕方のないことを言っていると思います。
それでもいい、という前提で話しているわけなんですけど。
言葉や文章というものはとても難しいもので、あたしは自給自足に反対ではないし、備蓄の必要性重要性を理解しないはずもないし、知らないでいるより知ることでなにか一つでもかわるかもしれない意義や期待を軽んじるつもりもないんですね。
むしろよほど共感的なつもりです。
近いうちにそこそこに使えるサバイバルナイフと浄水装置、あと食べられる野草図鑑くらいは準備して、自分で火起こしできるくらいの技能は身につけておきたいとは結構本気で思っていたりしますし。
とはいえ、そんな考えすらも実行に至らせるまでには”なぜ”という前提的な思考からは逃れられないはずなんですよね。
なぜ自給自足を実現する必要があるのか。
自らの力で生き残るため。
もちろんそうなんですけど、有事で物資が不足すれば、思いがけずそれを奪いにかかる人もきっと現れるんですよね。
そうして守るべきか戦うべきか、という分断の機会や思考をきっと求められる。
”生き残るため”
それはもちろんとしても、そんな有り様の中でもなんとしても生き残りたい理由が、少なくともあたしは必要になる人間で、つまり今の段階でそれを自分に説明できる気は、まったくしないんですね。
むしろ、そんな世界に生き残りたい理由を探す方が難しいし、穿った言い方をするなら”生き残るため”ではなく、”死にたくないから”と言ったほうが率直に言い表したもののような気がしてしまうだとか。
もちろん死にたくないですけど、そうまでして生きたがるにはそれなりの理由がいる、なんてまったく不届で自惚れたことを言ってしまうんですけど実際、どっちを向いても楽なことではないことこそ明らかなはずで。
どうして死にたくないのか。
そんなことの理由ってものすごく難しいじゃないですか。
むしろ、生きてるから死にたくない、って言ってしまえばそれがすべてのような気すらしなくもないんだし。
個人的には、そういった壊滅的な事態が起こることそのものを拒否したいだけなんですよね。
悲しい思いも大変な思いも、とっくに散々ですしもうたくさんなんですよ実際。
そんなことにならないために、毎日を心がけながら生きてるって言ってしまえば、それこそたぶんすべてのような気がするんですよね。
わざわざ酷い目に遭わされなくても慎ましく親切な心得を持って生きるべき自覚くらい当たり前に持ち合わせているつもりですし、今現在の世の中の当たり前とされる考えや価値観にはほとんどことごとくと言ってもいいほど違和感を拭えずにいるし、せめてはそんなことを自分なりにも見過ごさずに改められることは改めながら日々を過ごすことくらい常に意識しているつもりなんですよね。
そのために必要な、培われて然るべき”精神性”か、あるいは”自立した思考性”といった観点において、”なぜ・どうして・どうすれば”なんてただただ縋って教えを乞うばかり、聞いただけで救われた気がするような、学びを得た気になれる、満たされる”スピリチュアル”なんて、はっきり言って馬鹿の気休めくらいにしか思えないのは至極当然と言える理解や感性のことだと思うんですよね。
一体どんな世界で、どうして生き残りたがるつもりなのか。
個人的には多分、その不透明すぎる願望のことをなにより嫌っているんだと思うんですね。
”スピリチュアルまじやべえ”
って、その謂れはある意味至極真っ当のはずで、それを裏返せるだけの根拠を示し難いものがスピリチュアルというそもそもの性質のはずで、だからこそ必要なはずの”自立した思考性”という必然に足る理解や自覚がなによりも見過ごせないものとして、
”カップのナイト”
”ワンドの8”
というとても偶然とは思えないカードの出現に、”偶然なる必然”を感じて理解しないはずもない取り留めもないことをつらつらと書き綴ってしまうものなんです。
バブルの如く蔓延る”スピリチュアル”
逆さまのナイトはその本来培われるべき”精神性”への不理解こそを示して危ぶむもののように見えるし、束となって蔓延るそんな不理解がやがて至る”墜落”こそを、ワンドの8は奇しくもふさわしげに示したものではないのか、といった見解がカードを見た瞬間にあたしの中で迸ったものらしいファーストインプレッションだったのでした。
スピリチュアル、大好きです。
でも今はなんだか素直になれない。
それはお年頃でもなんでもないお話なのでした。

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