嫌いなのは大谷さんでもお嫁さんのことでもない
壁紙の片隅にポン、と現れる。
まっくろくろすけ。
ではなくてニュースアプリのポップアップ。
そうです、スマホの壁紙のことでした。
ここ数日、そんなものがポン、と現れるたびに“またですか“などとついついこぼしたくさせるそんな二文字。
“大谷“
もはや“おおたに“ではなく、“オォタァニィ“なんて、イントネーションのアクセントは“タ“にあるべき押しも押されぬ“セカイのオォタァニィ“さん。
日本人として、そんな誉れ高きどころではない大谷さん情報を見かける度に“またですか“なんて思いがよぎるならその精神はほぼ国賊級、穢らわしくみすぼらしく跳ね返るたかが妬みかやっかみの言い草だ、なんてけんもほろろに口では言わないだけで目でコロス“切り捨て御免“なんてそんな価値すらないらしく見下してこき下ろされてしまうかもしれないその可能性すら押しも押されぬ惜しまれざること火を見るよりも明らかな“人間国宝“か“我らの自慢の長男坊“
“大谷さん“
またですか。
そんなここ数日。
なんて。
“大谷の嫁“
沸きに沸いている。
湧くのは彼のプレイのことであってそうではなくて、この度は彼のプレイに沸いている。
沸いているらしい。
大谷の嫁に沸く沸く、いや、ワクワクしまくってるらしい。
実際には知らない。
なにしろXとかYahooニュースの斜め読み横目の視界みたいな出来事に過ぎないのだし、それはあたしという薄情さが思うことでしかないのだ。
偉大なる“日本の嫁“あるいは“日本の自慢の長女“
いわんや“我らの彼女“をや。
勘違いしないでほしい。
あたしは“大谷“も“オォタァニィ“のこともちっとも嫌いではない。
とはいえ取り立てて好きなわけでも嫌いなわけでもない、というセンシティブかアヴェイラブルかでもどっちでもないみたいな“嫌いではない“感じ、伝わるだろうか。
つまりスポーツ、あんまり興味ないんである。
そんなまったく個人的な興味から見る“大谷の嫁“なるここ数日の“日本の有り様“あるいは“日本という興味“について、さっそくタロットにかまけて愚痴を吐きたくなったらしいんである。
さっそくならさっそくとして行ってみようか。
またしてもジャンプで飛び出た。
重言だな、ジャンプは飛ぶやつだからな。
そんなことはさておき。
シャッフル、もはや下手くそでしかない気しかしない。
とはいえだからこそとも言えなくもなさそうな“偶然たる必然“こそ重んじるカードたるお戯れ。
メインカードは“法王“
“信頼“や“慈悲“、あるいは裁きや助言をもたらすものらしい、そんな見たままの厳格なイメージ。
そんなものとしての逆位置。
ファーストインプレッションとしてその視点かカメラ、つまり“誰のこと“なのだろう? という疑問が沸々と。
あるいは“誰に向けて“だとか。
アドバイスカードは“ペンタクルのクイーン“
しっとりと落ち着いた物腰、派手な印象はないけれど堅実で欲のない保守的な女性のイメージ。
嫁か。件の嫁のことなのか。
とはなぜか感じないそんなファーストインプレッション。
基本的に興味がない、それが原因だったなら実に申し訳ない。
念を押しておくのだけれど、別に彼のことが嫌いなのではない。
“信頼なるもの“
それが逆さまに現れた、ということ。
あるいはそれに尽きる、と言っても過言ではない気がしてしまってもこれっぽっちも不具合を感じない、気がしてしまってもちっともどうでもよい気がしてしまうのはあたしだけだろうか。
どんな日本語か。
くだらないゴシップが肩で風を切ってスピンする“日本人“なる民族の習俗。
あるいは“相変わらず“だとか。
暇かおまえら。
口悪く言ってしまえばそんな感じも惜しみないくらいには冷ややかにポップアップを見つめる人は案外少なくないのでは、などと個人的には思い付かされないでもなく。
念には念を押しておく。
あたしは大谷さんのことをこれっぽっちも嫌ってなどいない。
とはいえそれほどイケメンであろうか? といった意固地な偏見くらいはあるかもしれない。
押しすぎて余計なことを漏らしてしまうのはあたしという見苦しさのことだからなんとでも思ってくれたまえ、なのだ。
嫌ってなどいない。
信じて欲しい。
つまりは“法王“
それはやっぱり、大谷さんを取り巻く“民衆“たる“日本人“のこと。
そんな“習俗“への助言たる逆さまさのことではなかろうかと。
サカサマサ
どっかのブランドが短くなったみたいな語呂的快感。
そんなことはどうでもいい。
思いげな“クイーン“
その表情こそを信じたいのだ。
“あたし、そんなに興味ねえし“
やはりそうでしたか、クイーン。
いやいや。
そうではなく、しかと膝上に抱えておられる“ペンタクル“
つまりは“大切なもの“だとか。
“大谷さん“は“日本の宝“なのだろうか。
たぶんそうだと思う。
誇らしき“日本の長男“なのかもしれない。
だからどうした。
それはあたしという言い方かもしれないのだけれど、たぶんクイーンはもっと優しげで穏やかな意図において、もっと違うそんなこと、みたいなことを告げている。
そんな表情に見える、ということ。
その手にしかと抱える“ペンタクル“
見つめる目はきっと、自分自身こそを見つめながら俯瞰する奥深さのことではないのか。
きりりと、眉も目も口元も硬く張り詰めて見えなくもない。
それは“意思“として確固たる“自己“を担保して明らかに冷静な、清浄な落ち着きこそを感じさせて、サカサマサ、いわんや逆さまの法王に成り代わってその真正を、落ち着きのある観察を促す様のように見えなくもないだとか。
土色に塗れてウサギが無邪気に駆けている。
空気は朗らかな黄色に溢れ、背景の山は青く冷えて広がる。
その人それぞれの喜びとはなにか。
覆うように咲く小薔薇が、その自由をささやかに肯定する。
“冷静と情熱のあいだ“
勝手に引用してしまうそんな相容れない共有性、なんて矛盾をあえて提案する“慈悲“の気配。
“よいではないか“
法王の掲げる手が示す、温厚で慈悲深い本来の意図を逆手に取るが如く沸き立つ“大谷の嫁“なるここ数日の喝采。
“よいではないか“
“そんなに興味ねえし“
俗っぽく突き放すその“真意“、“大谷さん“という“日本の宝“が民衆に突き付ける“真意“をこれっぽっちも必要としないそんなのアクティブにも金にもならんとするらしいポップアップに透ける浮かれたお節介。
それをどこまでも真に受けたがるのか、という不信感ゴシップ感にこそ焚き付けられる“またですか“というため息吐息は一体どこに向いたものなのか。
そんなに興味ねえし。
それが悪口に、国賊的発言に思える人なんてそんなに多くないし、ちっとも悪意ではなくそれどころかよほど暖かくそれを思う人がよほど少なくないことを期待したいのだ。
そんな人はきっと、少なくないはずと勝手に思っていたりする。
すごいよね、大谷さん。
だからって、彼がホームラン打ったってあたしは一円も儲からねえし幸せでもねえ。
それって、薄情な言い草ですか。
大谷さんの嫁は大谷さんの嫁。
あたしらには関係ないしクソでこそねえし。
ひどい言い草だろうか。
その言い草がどっちを向いたものなのか、そんなことも理解できない人たちだけがワクワクしたがってるだけの暇さかさもしさなんて、そんなの真に受けたがる人なんてそんなに多くはいないはずでしょ。
大谷くんのことが嫌いなわけじゃない。
そんな苛立ちを度々逆撫でるポップアップのことなのでした。

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