どうしてなのか、鬼さんに聞いてみよう
“ああ、この世はダメになる“
って、当たり前に直感することってたまにあるじゃないですか。
当たり前の感覚として、ものすごくわかりやすい形で世の中に流布された、嘆かわしほどの鈍感さと誤解と物事の“道理“といったことへの思考の欠如、とでもいいますか、むしろそれを見越して食い物にするような底意地の悪さ、ということなら具体的な悪意があるからまだマシ、そんなことすら看過して現象やたかが話題性として衆目に奢りながら放置する“たかり記事“らしくやり散らかして憚らない節操のなさをこれっぽっちも疑うつもりもないらしい嘆かわしさ、そんなどこかの誰かを“一般大衆“というほぼ大半と捉えて見せつけて憚らない、そんな傲慢か依存か盲目かただの無思考か、そのすべてともいうべき世の中の傾向とされるらしい嘆かわしさ、とでもいいましょうか。
相変わらず捻転甚だしい文脈で、何言ってるのかちっともわからないと思うんですけど。
“躾けアプリ“
なんて謳いで取り沙汰されていたはずなんですよ。
お母さんの言うこと聞かない。
寝る時間になってもいつまでもゲームをしている。
好き嫌いを言ってご飯を食べない。
子育てには付きものの様々な困りごと。
“悩み“と深刻ぶるほどでもない日常の些細な手間や面倒程度の“躾け問題“への救世主、だとかなんとかそんな立て付けで。
言うことを聞かない我が子に手を焼くお母さん、ここぞとばかりにスマホを手にしてタイマーをセット。
「ほら、お母さんの言うこと聞かないと、おっかない鬼さんから電話掛かってくるよ。鬼さんに怒られちゃうよ、どうするのおっかないよ」
見透かしたようなタイミングで早速着信。
「ほら見てごらん、掛かってきちゃったよ」
さあ震え上がれ、とばかりに見せつけるスマホのには“鬼さん“からなる着信表示。
「ごめんなさいごめんなさいっ、言うこと聞くからっ」
こども、まんまと泣き叫ぶ。
お母さんしめしめで一件落着。
そんなものが、“流行ってる“なんて言い草でかつてプライムタイムのニュースで堂々と取り沙汰される様を見て、呆れるあまりめまいを覚えたものでした。
そんな“躾け“というまことしやかな手口を容認されながら“子育て“なる手ほどきのもと育った子どもたちが近頃に至って、“多動“だの“ADHD“だのと何やら使い勝手の良さそうな“病名“を与えられて分類されて、クスリを盛られたりクラスを分けられたり不登校、なんてオリジナルな生き方に目覚めさせられたりと、玉石混交も甚だしい“子育て事情“にますます世間は課題山積み、として更なる次の手となる建前や手口を掌の中で検索してもっともらしくそれらしくそれぞれに、それぞれの“悩み“かたかが面倒でもなんでもいいそれぞれにフィットする何がしかの言い草か手口に擦り寄って慰められるかしめしめと思い耽るかなんでもいい、そんな更なる深追いに逃すだけの“子育て事情“として世間は更なる“多様“なるZ世代のその次たるちっとも手に負えない子どもたちを捏造して最適な、効果的で儲かりそうなおクスリの開発に余念がないだとかなんとか。
もういいですね、読みづらいですよね。
当たり前の話だと思うんですよね。
“鬼さんに怒られる“から、言うことを聞きなさい。
なんて、そんな“躾け“を躾けとして、道理として育てられた子どもが、授業中にフラフラ歩き回ることを叱られて理解できるはずがない、というのは当たり前の考えで感覚の話だと思うんですけど、なにかおかしなこと言ってますか。
だって、“鬼さん“から電話なんか掛かってこないですよ教室には。
“学校にスマホを持ってきてはいけません“って、学校はちゃんと“鬼さん“から守ってくれる決まりをちゃんと建前として設けてくれているから。
全然おっかなくない。
“授業中に勝手に歩き回ると、鬼さんから電話掛かってくるよ“
なんて、さすがにそんな教師はいないですよね、さすがに。
今どきの世の中ですから、油断はできないかもしれないですけど。
素直に育ってるだけですよきっと、子どもたちなんていつだって。
いつの時代も。
いつだって、いつの時代も世の中の問題の原因は、大人が作ってる。
“鬼さんに怒られるから“
そう躾けたのは大人たちで、子どもたちはちゃんとその“躾け“を守っているだけ。
そんな“躾け“から逃れられる環境でそれに従わないのは、むしろ“子どもらしさ“として許容するべき大人の役割として、課題として場面がすり替わっただけのことなんじゃないのかって、当たり前に思うんですよね。
大変ですよ、先生方。
あたしも子どもさんの髪を切ってるとき付き添いの親御さんに、
「ほら〇〇ちゃん、じっとしてないとお兄さんに怒られるよ」
なんて、誤用なる"躾け"賜ったものなんですよね。それ、おかしくない? って、思うだけで言うことはしなかったですけど。
どうして言うことを聞かなければいけないのか。
どうして好き嫌いを言ってはいけないのか。
どうして決まった時間になったら寝ないといけないのか。
どうしてお母さんは怒るのか。
“鬼さんに怒られるから“
そんなわけないってことくらい、どうして馬鹿馬鹿しく秒で理解できないのか。
当たり前に。
つまりそれってほんの一部の、いつかの何かのちょっとした出来事か流行りのようなことでしかないんですけど、そういう“無思考“に優しいあれこれが、人の数、掌の数だけそれぞれに些細に行き届いて真に受けたり受けなかったりするその確率やリテラシーっていう程度として、じわじわと染み込んで現在に至る、その“感覚“っていうそれ故たる現在の世の中の価値観や考え方の"明らかなら劣化"みたいなことを、逐一立ち止まって考えたくなることってあるじゃないですか。
人間は便利とか楽とか損得に揺さぶられやすいらしいですし、そのために当たり前に蓋をする言い訳を思いつくことにはすっかり長けて、掌の中にはそれを嘆いてキズを舐め合うようなプラットフォームだって腐るほど提供されて、向き合う体でまんまと目を逸らす逃げ場や言い訳ばかり与えられることこそ枚挙に暇もない有り様らしいんですよね。
“子どもが言うことを聞きません、どうしたらいいですか“
“不登校です。どうしたら希望を思い付かせてあげられますか“
“主人が協力的ではありません。この先どうしたらいいのかわかりません“
そうですかそれは大変ですね、ってまんまとした優しげな回答なんてあちこちに溢れてるんですよ。
“ありがとうございます。切り替えて明日から頑張ってみます“
って、嘆いた側こそすっかりまんまとして気分スッキリらしく。
どうしてそれでスッキリなのか、救われた気になれるのか、ちっともわからないんですよ個人的には。
子どもたちは今日もまったくそんな“躾け“に適った“子どもらしく“、授業中の教室をはつらつとウロウロしてますよ。
そんなの当たり前だと思うんですよね。
まったく順調な有り様だと思うんですよ。

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