何サマバイアスと多様性の笠
”認知バイアス”
”正常化バイアス”
”バイアス”っていうのは端的には傾きとか偏見とか、それは言い過ぎかもしれないですけど、要するに見解として”答えありき”的な頑固さだとか聞く耳のなさのようなものだとか、ってそれもまた言い過ぎかもしれないんですけどつまりは積極的あるいは高圧的コミュニケーション不全という明け透けなる標榜、そもそもその気がないことを概ね憚らない態度を直面する”ディテール”に対してあからさまに振る舞いつつ蔑ろにやり過ごしたがる”優位性”、その横柄なる”優生思想”という傲岸なる腹の中に裏付けれた臆面のかけらもないその却下性、見下してままなるとした振る舞い方そのもののことのはずで。
”認知”、あるいは”正常性とは。
人類は、あるいは特筆して日本人とは”既存性”、”帰属性”を嫌いながらその揺り戻しの如くもろに囚われがちな民族として、”知らない”、”わかんない”、”見たことない”といった”ディテール”についてあからさまな”嫌悪”あるいは”拒否感”を示しがちで、つまりなかなかの”日和”、まあまあな”チキン”、そこそこには”性悪”であるその腹の中というチープな保守思想を隠しきれない気質であることには蓋をしながら親切とか理解とか絆、なんちゃってことあるごとに物分かりのいいようなメッセージやワードを笠に着るどころかほっかむり同然でやり過ごす”調和思想”にばかりは敏感で、やり過ごしてすっとぼけまくる”ええ格好しい”を総意において重んじることで精錬跋扈してきた民族として、今や世界にひしめく格上の”優生思想”メタ認知バイアス傲岸覇権主義者たちによっていよいよ食い物にされること甚だしい最終局面に陥りつつあるわけなんだとか知らんけど。
だから、”情報”に囚われるんだとか。
囚われたいんだとか。
とっくに捕われてるらしいだとか。
日常の視線の先にはあらゆる”情報”が溢れかえって、もはやその全てを捌き切ることなどこの地上における何人にも適わないマジカルハイエンドスペックとして次元の彼方に遠ざかり、人類の、ましてやその底辺たる庶民に至ってはそれぞれの手元にそれぞれとしてカスタマイズされた”情報”という”搾取された提案”に一ミリの疑いも持たないどころか”便利”はたまた”快適”などと自らのストレス低減と願望の加速にばかり評価をバグらせたバクかマナティみたいな悠々たる感度の鈍化あるいは家畜化にはこれっぽっちの自覚も思いつきようがないらしく。
何だか酷いことを、何サマみたいなことをたいそうぶっ壊れた文脈で捲し立てている。
捲し立てている、というほどの勢いでもないか。
まあよろしい。
つまるところ、日々思うことはまさにその逆さまのような苛立ちのことにこそ違いなく、”あの店、なんかヤバくない?”などとことあるごとに揶揄されがちな身から出たサビの如く打ち付けられる世間体にすっかり慣れきったものとして、アラズヤ商店として日々考えさせられることは、こちらこそ傲岸甚だしく飼い慣らした”認知拒否バイアス”なめんな、あるいは”正常化とか上等かよバイアス”死守、なるこれからの世における”自立”する精神思想をこれっぽっちも譲る気も日和る気も、チキンだけど喰われたくないだとか、こちらこそ生来以ての性悪を憚らない”独自性バイアス”を惜しまない商売をあっけらかんと押し出してゆきたいものだ、といった常日頃から暇なく昂る脳が吐き出す”指向性バイアス”による企みや態度ばかりだったりするのです。
”多様性の時代”らしいんですし、”ヤバい”だなんて囚われて立ち遅れたようなこといつまでもなに言ってんだろ? くらいのことはついつい感じてしまいますよね性悪らしく。

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