”自分のことばっか”とする文盲か、たかが日常とするそれぞれか

 語彙とか文脈って、難しいですよね。


操ることすらままならないものを、齟齬なく他人様にお伝えしようなどと自惚れたことを試みるならなおのこと、十中八九都合ひん曲がって誤解か歪曲かただの不愉快らしく足蹴に読み捨てられて要らぬ決定を下され見下されるのがオチというもので。


”言論テロ”だなんて自覚があるもなにもたかが性分丸出しの如く、年に何度かはそんな血を騒がせては仕出かすだけ仕出かしながら、神のご加護かはたまた鉄槌か、一先ずは適当なものを適当たらしめるが如く失うか見損なわれる的境遇に貶められがちなタチだったりします。

馬鹿なのに主張は激しい、って明らかに面倒臭いですよ。

そんな手に負えない性分である自覚はもちろんのこと、なんなら扱い損ねてばかり擦り傷打身打撲だとか割と整骨院レベルの煮え切らない負傷に腐らせてやり過ごす迫力のなさも含めて、つまり碌でもない生き様を性懲りもなく垂れ流す生きながら産廃ならぬ人廃的始末の悪さをもろに露呈し続けている自覚こそ揺るぎなく。

反省する気配もなく。

身に余るそぶりこそなく。


”選択の自由”

つまりは“自分のことばっか” っていうお話を先日したんですけど、そんなことすらとっくに正確ではない話の設計をしている自覚はあるし、不正確どころかほぼ逆さまに伝わりかねない予感というか吹き荒ぶ残滓さながらにわだかまる心許なさだとか、やっぱり扱い損ねるんだな、といった過大評価の失望かポンコツにもとるせん妄かはともかく、そんなものにばかりはとっくに免疫を獲得したものらしくのさばるだとか、誰にもどうでもないだとか。


スーパーで行き交うにもままならないほど、どうして視野狭窄の如く自分の都合にのぼせたような人ばかりなの? っていうほとんど怒りのような、そんなこと思う自分自身こそふてぶてしさ極まるみたいな感情って果たして、本来あるべき人間感情なり倫理を踏まえた上で全方向に言い得て相応しくまかり通るものなんだろか。

そもそも“本来“って、なんのことなんだろかだとか。


もちろん、そんな日和った前提につまずくつもりなんてないのだけれど。

感情的にはとっくに譲り難く嘆かわしき有り様として決して不正確なばかりの見立てとは思っていないし、つまりそれって伝わりにくいかもしれないけれど、”自分のことばっか”っていうその言い草を字面そのままにかい摘む、道理や道義を履き違えて鵜呑みにしたがるようなヒステリックな都合やはやとちりみたいな嫌悪の方が余程まともらしくまかり通る、まかり通るものとしたがる社会であるらしい日常の些細で様々な交雑に当てられるたびに、遠い目の如く言い草たる言い草に思いを馳せてのさばらずにはいられなくさせられるらしいだとか。




”自分のことばっか”

あえて、ひん曲げたいものなのだ。

“その視点って、どこからどこに向かうもののことですか“

簡単に言ってしまうなら、それって他人に向かうものなのか、他人から向けられるものなのか。 

個人的には、その感性のベクトルが信用ならないのだ。



いかなる場においても順番を守る日本人の精神は素晴らしい。

かつての大災害において日本人は、園児教育をぬくぬくと見守る町内会長による賛辞、みたいな言い草を多くの海外メディアから賜り、誇らしく鵜呑みにしたはずなのだ。

そんな言い草は、感じ悪いだろうか。

うらぶれて悪びれた言い草だろうか。

当たり前、などと自重にかまけるならせっかくの賛辞が台無しに、もったいないことになってしまうのか。

日本人として。


我先として振る舞うことに恥を感じるのは日本人の美徳として当たり前のこと、などと言ってしまったら生意気なのだろうか。

敗戦国と見なされた国に住まう羊の群れとして、諦めが悪いだろうか。

確かに、順番を尊重したのは被災した現地の方々で、そうでもない状況に逃れたその他の幸運な人々はおびただしく繰り返されるACのCMに辟易としながら不満を漏らしたし、“絆“なんて普段は呟くことすらない珍しい文字を掲げつつ共存と復興を振りかざして乗り越えることを誓ったのだし。

あたしなんか、徒に蔓延る恐ろしい映像に見入りながらただただ焦燥に駆られて、余分な電気を消したり出先で見かけた募金箱にちゃりんちゃりんと、普段ならそんなに入れるはずもない程度のお金を落とした程度、ボランティアも、支援物資も、売名と罵られても打ち返せる具体的な実効や影響力など発揮しようもなく、たまたま災害から逃れただけのたかが一下級国民として、役立たずであり続けただけ。


“日本人の精神は素晴らしい“


それって緊急時のみ発動するものとして、限定的な機会にのみ賜る賛辞に相応しく振る舞える“日本人“として真に受けて誇って然るべき”民族性”ってことなんだろか。

それが役立たずであり続けた下級庶民の言い草なのだから、我ながら嫌になってしまう。


他の国のマナーや倫理はわからないけれど、”日本人”と称して賛辞を惜しまないからにはそれなりに粗暴であったり早い者勝ちみたいな倫理を許容するより他にないヘヴィでラウドな強引社会からの視点によるものなのかもしれないとはいえ、そんな感覚と比して“素晴らしい精神“を持つ国、日本に暮らす下等庶民として少しも素直にそれに含められたい気がしないのは、それとして比較されることでもなかろう、とするまでもなく日常にはにべもなく消え失せる“日本人“なる賛辞を賜ったはずの有り様、“自分のことばっか“らしくほとんど減点法でしか見積もれないらしくすっかり落ちぶれた“絆“か“精神“か、そうして然るべく巻き起こるのかもしれない事態にぬくもりの如く吹き込まれる“精神性“なる賛辞、まんまと見込まれて全体として鵜呑みにしたがる“美徳“なる建前感みたいなものこそが気に掛かるだとか。


ひん曲がってることこの上ないです。

我ながら精神性最悪。


他人様をこき下ろせるような立派な倫理を貫いて生きているつもりなんてもちろんないです。

とはいえ、大袈裟な風呂敷を広げたみたいな話ばかりを真に受けたがる素直さには、なんだか興味が持てないですしなんなら混ざりたくないですし、ひん曲がるとしてひん曲がりたがる理由の方がよほど気になるというか、そういう手間をいちいち必要としてしまうところがどうにもあって。

そういう“手間“こそを思いつかせる場面が、よほど身近に思わずにはいられない場面が近頃の世間にはなんだか多すぎる気がしてしまう、というのは資格なく自惚れた話なんだろか。


行列でむせかえるスーパーのレジで、たまたま同じタイミングでそこにたどり着いた人に順番を譲ることってそんなに難しいことではない、とかそんなレベルの話です。

むしろ進んでお譲りします、っていう“精神性“レベルの話。

自分が見たいはずの売り場に立ち止まる人を見かけたなら、後回しにして他の売り場を回ることくらい苦でもない。

当たり前の話ですよ。


ええ格好しいみたいなこと言ってるつもりなんてないですよ。

ただ単純に、”それって、なんのため?”っていうシンプルな確認ですよ。


”他人に親切にしましょう”


まじですか。

個人的にはそういった強制啓蒙的教育理念か作用させたがるベクトルみたいなものが苦手というかほとんど違和感、方向音痴みたいに思えるところがあって。

”親切にしよう”っていう心掛けはもちろん大切だと思うんですけど、”他人に”っていう枕に違和感を思いつかずにはいられない馬鹿がここにいます。


他人に親切を振る舞うことは、勇気や気遣いがいることですよ。

親切のつもりでも、それが相手にとっては親切なのかどうかはわからない、だとかそういう屁理屈みたいな話には付き合いません。

むしろ、迷惑さえ押し切れるくらいの良心なら、ぶち込まれて震わせて欲しいくらいのもので。

然るべく差し出せる“親切“とか“良心“って、そういう心の強さみたいなことではないのか、だとか。

あたしなんかには持ち得ないからこそ感じさせられる、といった意味にもおいて。

“余計なお世話“なんて酷い言い方だと思うし実際に聞いたこともあまりないですけど、ついついそんな風に叱られがちな人だとか、場面にもよりますけど個人的には結構憎めなかったりするところってなくもないです。


つまりなにが言いたいって。

差し出したその結果、及ぼしたり及ぼされたりすることが問題ですか。

理由ですか。

難しさですか。


伝わりづらいかもしれないですけど、”結果”をなんと心得るか、みたいなことなんだと個人的には思ってます。

”それって、なんのため?”って、そのベクトルの頓珍漢さみたいなことなんだと思ってます。


親切を差し出すのって、なんのためなんだろか。

“なんのため?“っていう疑問の持ち方がそもそもおこがましいのか。

見返りを求めるな、っていつか誰かが何かについて言ったのを聞いた覚えがあるけれど、個人的にはむしろ自惚れた言い草みたいに聞こえなくもないですし、そんな健気さを期待して受け取ってしまったら、人として何かが鈍りそうな危険さこそ感じるだとか。

ひん曲がりすぎですか。


“語彙“とか“文脈“って、本当に難しいですよね。


そうじゃなくてもっとシンプルに、”差し出せる自分”っていうその道義や決断や勇気を、相手を介して自分に映すことなんじゃないのか、ってちょっと嵩張ったようなことつい思ってしまうんですよ。


誤解を恐れずに言ってしまうなら、”親切”を振る舞う、心掛ける場面において他人なんて関係なくないですか。

なんならどうだっていいし、受け取る側だってその人次第に違いないんだし。

どうだっていいっていうのは相手のことではなくて自分自身こそへの心意気のようなものだとか、むしろ”親切”を振る舞わせてもらえる場面を与えてくれた人として、そんな相手へ相応しく振る舞えるものでありたいと考えることこそがあるいは”日本人”という本来の美徳の根幹にあるものとして当たり前に理解するもの自覚するべきもののような気がするし、大袈裟な場面でわざわざ取り沙汰される“賛辞“なる賜りを真に受けて報われる気がするような下卑たものではないはずだと思いたいし、とはいえそんな“日本人“なる“親切“は特級呪術の如く日常からは封印されて、“自分のことばっか“らしく見咎められがちな行動や振る舞いを“選択の自由“よろしくたかが日常としてにべもなく馴染ませて開き直りながら交雑を争う夕暮れ前のスーパー、という切り取ったたかが一場面にこそ今現在の“日本人“という偽りえない本性は疑いも恥ずかしげもなく剥き出しになっている気がどうしてもしてしまうだとか。


他人への親切が行き交うことで世の中は整うんですか。

”譲り合う日本人の心は美しい”って、外国の人は賛辞を惜しまないものらしいんですけど、それははっきりと身に余る話のはずで、”そんなつもりはないですよ”と謙遜することを惜しまずしてこその”日本人”っていう美徳については、誰も話さないんですか。


”自分のことばっか”

そんなことを例えば”エゴ”だとか、”自己中心的”だとか”我よし”だとか、いつの間にかネガティブな思考として分類したがるような言い方ばかりが当たり前として蔓延る世の中らしいんですけど、それってもしかしたら誤解なんじゃないのかって、ときどき思わされることが個人的には少なくないんです。

”自分を満たさずして”

自分のことすらままならなくて、何ができるのか。

それってケチ臭い話みたいに聞こえるらしい現代の”語彙”とか”文脈”っていう蔓延る感情はよくわかります。

その上で、”空気読め”が社会生活における暗黙の了解として測られて然るべき感度であるとするらしい”日本人”っていう自意識過剰が躾けたがるたかが建前、だとか個人的にはほとんど逆さまみたいなことを思っていたりします。


スーパーで順番を譲ることは、”美徳”を振る舞う、自覚するための簡単な場面だと個人的には思っています。

”自分のことばっか”見るべき場面、正確に”自覚”するべき場面だと思っています。

相手とは、そのために遭遇する“鏡“みたいなものなんじゃないのか、だとか。


遭遇する場面に思い当たるべき“理由“とか”難しさ”って、なんなのか。

伝わりづらい話だとは思うし、そういう理解って単純な目的意識や不可逆な思考では到底辿り着けない”感性”の話だと思うし、あるいは現在の世の中のほとんどの場面において、そういった”理想”とあえて言ってしまうんですけど、そんな感度に基づくことはむしろ損や不利のように感じてしまいかねない場面にこそ行き着きやすい気がしてしまうものなのかもしれないですし、とはいえ個人的にはそんな感情や辛抱こそ、報われるものとして信頼されるべき、当たり前に行き交わして整えるべき時代はとっく訪れている気がしていて、そういったことをどれほどの人がいかに早く、当たり前に理解して心得るのか、その進度がすぐ目の前の世界のあり方をこれまでになく露骨に分けることになるような、そのための猶予か観察の限界に近いところまでとっくに来てしまっている気配ははっきりとあるのに、いつまでもそぐわないこの社会はそこかしこに軋みを抱えながら不機嫌さばかりをいよいよ深めるばかりのような、ハラハラするだけならまだマシで、実はもう手遅れによほど近い有り様である気が完全にしているし、そんなことは露ほども察する気もないらしく現代の仕組みを鵜呑みにしながら”自分のことばっか”という逆さまを互いに毛嫌いしながら交雑を突き進む人類、あるいは”日本人”に訪れかねない重大な節目を、一つの区切りのような深刻なタイミングを予感せずにはいられないだとか、そんな大袈裟なことをたかがスーパーに出くわす“自分のことばっか“な交雑に思い耽るあたしはたぶんどころではなくかなりアタマがおかしいはずとは思うんですけど、とはいえ結局、好きじゃないんだと思うんです。


”語彙”も”文脈”も操れない、読み解けないのは自分か社会か、そのふさわしくは交わり得ない人類か日本人の行方など、ほとんど未練のかけらも思いつける気がしないんですよ。

せめては大切な家族のことだけが精々だとか。


今朝も通勤の国道で、まったくの不注意かその気すらないらしい老人が運転する右折車両に衝突されかけました。

もちろん、見向きもせずそのまま走り去ったその横顔にはそんな事態そのものへの認識すらないらしいことは明白で、こちらこそ腹を立てるまでの気力すら思いつけずただひたすらに”どうしてなんだろう”と、ただそれだけが駆け巡る自分自身のアタマの中でゆらゆらと湧き立つとっくに干からびたような絶望、この世の中の仕組みに対する理解や許容にせめても努めるべきとする態度は、追い討ちに咽ぶが如くボロボロと崩れ落ちるばかりなんです。


“自分のことばっか“

他人事にこそ相応しく映して心得たがる“精神性“を、日本人は“損“としてとっくに見捨てた視界の先で今日も買い漁るばかりなのか。






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