メッセージがそのままばっかなわけがない
“女性性の時代“
政治、文化系の記事や芸能果てはスピリチュアルに至るまで、そんなメッセージが跋扈して久しい今日この頃。
“風の時代“だとか、ともあれキャッチーなメッセージに世間は関心を惹かれ心を掴まれやすいものらしく、発信する側もそれをしかと心得た見せ方纏いかただとか、ともあれ卒のない発信や訴求にいとまなく励むものらしくその甲斐あってか、
“女性性の時代“
なるメッセージは瞬く間に世間の注目を、果てはサムネイルの有効なるフックとしての需要を鷲掴みにしたものらしく。
そんな大袈裟なほどでもないですか。
そうですか。
トワイエ。
メッセージって、誰が決定するものなんだろか。
それがメッセージとして事実に即しているかどうかだとか、そんなことはどうでも良く、むしろそんなメッセージとして用いれられがちなベクトル、つまりは試みる作用と受け止める側の読解力、とでも言ったところでしょうか。
実は個人的に、かねてよりなんだか信頼ならざる風味を嗅ぎつけるでもなくあまり共感できる素直さにあるらしくもなく。
つまり、お察しの通り。
あたしは“女性性の時代“というメッセージのパワーワード感に、あまり共感的な立場なり理解を示し難い立場をとるものなわけで。
わかります、その気持ち。
手に取るようにわかるその気持ち、あなた、昭和生まれじゃないですか?
近頃だんだんナチュラルに、自分らしく生きることにいささかの逆風か些細なつまづき、あるいは不愉快にして罷りならぬストレスに、口には出せざる不平不満に自己肯定感が揺らぎつつある、そんな迷いにこそ“時代の流れ“なるいい加減にも無根拠にも程がある言い訳の必要を感じてしまったりしていませんか。
“女性蔑視“
なるフェミニズムの旗のもと昭和平成令和と日本女性は着実に跋扈するその意義と権利を“靴下“などと揶揄されながらも逞しく獲得してきたはずなのだけれど、“それってどうなの?“なんてあたしこそ昭和生まれ団塊ジュニアど真ん中たる日本のお荷物世代ながらに思い察するそこはかでもなくすれ違う“何か“の気配。
“戦後強くなったのは、女と靴下“
その言い草。
ちっともわかっとらん、とは誰も言わず、思いもしなかったことなのだろうか。
伝わりづらいことだろうか。
“強くなった“
その語彙に根差すもの、あるいはその言質のベクトルの視点と作用点、とでも言ったところか、なんだかあたしはそこはかでもなく“不純“に片足を残す思想と言質のほっかむりのような気配を察しないでもないのだけれど。
“女性性の時代“
それを聞いて心を強くする、期待を昂らせる女性は少なくないと思う。
あたしはそれを不愉快に思うつもりはこれっぽっちもないし、ましてやズブズブの女系育ち、それもコテンパンに貧乏不遇の母子家庭育ちとくれば、“女性“という主体性の跋扈に反感など思いつけるはずもなく、歓迎理解こそすれ“女性蔑視“をひた隠しに自らの欺瞞と傲慢をほっかむりで振り翳す口も息も汚いおっさんになりたがるはずこそなく。
これからの時代は、“女性による“ところ多岐にわたるだとか。
そればっかではなにかしら確かに“メンズは総じてポンコツ“とみくびられた気がしなくもないことはオールドメンズとして否定し切れるものでもないのだけれど、勘違いしないでほしい。
そんな発信者の意図こそ、そんなつもりなどないことを正確に受け止めて自己解読してほしい気がする、というかするべきだと思うものなんです。
“日本初の女性総理“
近頃良く耳にするパワーワード。
それって、これからの時代の“希望“ですか。
日本にもサッチャーが、メルケルが、アウンサンスーチーが必要ですか。
もちろんいいかもしれない。
あたしなんか極端な人なので、小池百合子さんより高市早苗さんより、深田萌絵さんがなればいいくらいにはアクティブでキャッチーなことを普通に考えてしまうタチときますし。
伝わるだろうか。
例えば深田さんは、自分の力で総理大臣になれる人だと思うけど、ならない、なれないんですよ。
自分の力でなるのではなく、たくさんの人に支えられながらなる、なれる人だと思うんです。
知識や専門性や行動力、数え出したら優れた人なんていくらでもいるのだろうけれど、“支えられる“、“支えたくさせる“能力あるいは魅力に恵まれた人というのは、案外それほど多くはないのではないか。
伝わるだろうか。
そう言った意味で、深田萌絵さんは“女性性の時代“という昨今跋扈するパワーワードを体現するに値する“女性性“にまさしく優れた人物のように、象徴的な存在の一人として、あたしなんかはようやく、“女性性の時代“などどただでさえ誤解の多いファーストインプレッションばかりを救われがちなメッセージの本懐を得たような、溜飲が下がるような思いに行きつけるものなんです。
女性が先頭に立てる時代。
それは豊かであり、理解があり、柔軟であり、けれどそれとまったく逆さまのベクトルにおいて因縁の如く“女性性“という誤解を深める、罷り通らせる他意か欺瞞が相変わらずこびりつく、扇動するものよりはいよいよ民衆的な、受け止める側の願望に優しく肯定するに易い“心理トラップ“が仕込まれているような気がしなくもないだとか、あるいは単純に、“馬鹿になりすぎた庶民“という読解力の低さ、願望の貧しさこそが要求して貪るたかがインフルエンスでしかないかもしれないだとか。
個人的には、思うんですよ。
“女性性の時代“
それは今こそ“女性“が立ち上がるべきときだとかそんな傲慢な、逞しく跋扈するような話ではなく、太古からの連なる“女性性“という日本古来から培われてきたはずのものに比して、近年の“女性性“という有り様、むしろ損なわれつつあるように見えるそれの“再認識“という建て替えの意こそを本懐とする“女性性“ならではの“逞しさのススメ“のことではないのか。
あたしは、“女性“が好きなんです。
エロい意味ではなく、リスペクト。
それが苦労してばかりのまま死んだ母親だけのことでもいいんですけど、“女の人ってすごい“って、生まれつきの如く疑いなく思ってしまう、感じてしまうばかりのものなんです。
“女性性の時代“
そんなせっかくのメッセージが、“時代”というたかが都合か便利でひん曲げられないように、誤解のごとく民衆に届かないように、ボロいメンズとして願うばかりなんです。

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