ホワイトになったら鵜呑みにしたくなってきたらしい

” コメント欄が嫌いです”


これって結構な万能語っていうか、聞く人によって想定するプラットフォームはそれぞれのことと思うんですけど、つまり想起される感情やわかりみみたいなものはほぼ共有したもののはずで。


”コメント欄”と一口に言っても、その性質か状況のようなものはだんだんと移り変わったものらしく、時代の流れとかさまざまな事件や騒動を経るたびに認識される理解や価値観や社会性、なんていうと大層正しげでもっともで賛同に値する都度の結論的な正当性のようなことを想像しがちかもしれないんですけどその実、たかが変化の如くその性質を変えているのみでしかないとも言えなくもない感触で。

個人的には。



少し前までは目にあまる罵詈雑言や誹謗中傷も当たり前みたいな、Xとかむしろ民度下がってるくらいの謂れもあるらしんですけど、おおむねの傾向としてのたとえば岡田斗司夫さん曰くの”ホワイト化”ですか、そんなメッセージ活動か草の根啓蒙もあってか削除もBANも日常化、残されたリプやコメントはぺらっぺらのキレイゴトや妄信がさせるふわっふわの世迷言ばかりで枚挙にいとまもない有り様だとかなんとか。



”誰々さんが言うことには”


そんな言論って、本当に”程度問題”だと思うんですよね。

個人的には”スピリチュアル系”だとか全然アレルギーのないタチで、今でこそ流行りに乗って十万人レベルでフォロワーを抱える”インフルエンサー”的影響力を獲得した人たちがまだ何千人レベルで活動されていた頃から熱心に拝見させていただいていたくらいにはちょっと気味の悪いスピリチュアル好きで、そんな御仁も何だかよくわからないグッズや啓蒙を深めるに至って、ってそれはあたしが意地悪くそう感じたがっているだけでもあるかもしれないんですけど、

”なんそれ”

みたいな発動する薄情な感情は誤魔化しようもなく、それがもはやあちこちで散見される有様ともくれば何だか、当たり前なんですけど後悔先に立たないのはそんな御仁方ではなく他でもないあたし自身のことにこそ違いなく、なんてめっぽう不貞腐れた気分をここのところ思いつきがちであるらしく。


とはいえ、そんな御仁方が発信されるメッセージや感じ方や考え方には変わらず鶴首に値する共感はあって、妄信とか盲信、ではなく”同意”に値する自分自身の”理解”を促してくれる示唆に富んだその発信力、想像力、先進性にこそ信頼を思いつきたいところで、決して”どうしたらいいですか” 、”なぜですか”、”どうなりますか”といった縋るような頼りや懇意にかまけたがるような依存的な興味はこれっぽっちもないわけで。




罵詈雑言、誹謗中傷の類の一層目指して変化し始めた先に残されたもの。


”教えてください”


つまり、自ら思いつく思い入れに盲目の如く拘泥する妄信、盲信の嵐、”質問狂”


”言われた通りにしたら上手くいきました”

”心洗われます”

”前向きな姿勢が大事ですよね”

”私も近頃そんなことがあってハッとしました”

”教えていただいたことを毎日唱えてます”



……。


”質問力”っていう本があったと思うんです。

多分読んだこともあって。

当時はお店でお客さんとお話しさせてもらうときの一助に、なんて、あたしは案外話ぶりがご覧の通り図々しくて色々心地よくないような会話に陥りやすくなくもないところがあって、”質問”っていうつまりはあたしではなくお客さんにお話しいただく方向に会話を仕向けられる”いい大人”になりたいなあ、なんてことを思いながらそれを手にしたんだと思うんですね。

つまり、全然身についていないんですけど。


まあ、それはそれとしてなんですけど、”質問力”ってこと。


これはあたしなりっていう誤解かもしれないんですけど、それってどっち向いた話なんだろう? なんて考え方を何かにつけするところが”スピリチュアル”をきっかけにしてばかりでもないんですけどここ五年十年と言ったところで都度違和感の如く引っかかることが少なくないんですね。


”質問力”


どうしてそれを必要に思ったのか。

それってどうしてなのか。

何のためなのか。


伝わる人には伝わるかもしれないそんな”違和感”のこと。



時間がないので続きはまた後日ということで。



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