件の芸人界隈についてタロットに聞いてみた。


まだまだ民衆裁判かもしくは公開処刑のデモンストレーションか、当事者たちの正式な動向こそまだまだこれからという現時点において、眺めるばかりのものたちばかりが先走るばかりの如く繰り広げる紆余曲折、どっちもどっちがどっちがどっちでもいやはや実はそうでもなかっただとか、SNSやネットニュースでは相変わらずの玉石混交ならぬ好き嫌いやポジショントークやただのマウントか蔑み合いの様相を無責任かお節介さながらに深めながら飽き飽きも辟易もない混ぜたるぺらっぺらなカオスの様相をいよいよ呈するものらしく、とはいえ個人的にはどちらとも共感するしない以前に何かしらの“違和感“ばかりがほとばしる薄情さで横目に見過ごして参りましたここ数ヶ月。

いや、件の芸人さんには大晦日などにはめっぽうお世話になったものですし、好き嫌い以前に数多のご活躍にすっかり便乗せしめた一視聴者として、少なからず馴染みの思いはないはずもなく。


とはいえ、

あたしはさまざまな観点において趣向が偏重甚だしいタチなものですから、

“好きな芸人さん誰ですか?“

なんて訊かれたら、“ですよさんです“ なんて即答しかねないすみっちょ暮らし気質といたしましては、大御所あるいは中堅と評される界隈の方々への特段の思い入れのようなものは案外希薄であったりもするわけで。

フット後藤さんみたいな、すっかり死んだ目も板についたプロ感も嫌いではないんですけど。

あと、ビジュアルとコンビ名の集合感という意味では“金属バット“さんがかなり憧れ的に好きです。



そんなことはさておき。



週刊誌やネット記事、はてはSNSなどで見かけるさまざまな言質に、どうしてかどれを取っても腑に落ちないというかスッキリしないこの気持ちは一体どうしたことか?

とかねてより燻っていた超個人的“違和感“を、タロットで明らかにしたいと思いました。





2枚ともルーティンのシャッフルのうちにジャンプで飛び出てきました。

メインカードは大アルカナの最後のカード“The World“
“完成“とか“到達“みたいな、つまり集大成的な意味合いの多いカードです。

アドバイスカードは“ペンタクルのナイト“
こちらも結構似たような意味合いというか、“安定“、“誠実“といった手堅い意味合いの多いカードなんですが、問題なのは逆さまに出ているということなんですね。


個人的にはカードの意味合いにあまり囚われすぎないリーディングを心掛けるところがあって、占う内容に対してそのカードから受け取るファーストインプレッションみたいなものを常に意識するところなんですよね。


そんな見立てにおける“The World“ 
その意味合いってどういうことなんだろか?

これって、ただの偏見かもしれないです。

個人的には、中央の女性の顔つきがどちらかというと精細を欠いて見える気がするし、無気力かあるいは自惚れて怠惰な表情に見えなくもないだとか。

同じく、その四方を取り囲む人物や動物たちの表情も押し並べて意地の悪い気配を浮かべて見える気がするし、唯一の人物に至っては冷ややかに目を閉じて取り着く島もない、といったそんな横顔。

女性に絡まる蛇か龍のような存在もこの度のリーディングにあたってはあまり軽やかなものには見えない気がするし、覆うリングは結界としてかなり頑強な隔たりを感じさせる。


個人的には、このたび話題になっていることの顛末にはあまり興味が持てないですし、どちらが事実で偽りかを求めることこそ話題性ほどには価値も意味もなさそうな気がしてしまいます。
何しろ、中央の女性の顔付きときたら、周囲のことなどとっくにどうでも良さげかむしろ食い物にしてやり過ごしても構わないといったやぶれかぶれ感みたいなものすら見て取れなくもないだとか。

両手にバチみたいなもの構えて、なんだか浮かれてお気楽そうじゃないですか。
あえてそうしているとも取れなくもなさそうな気がするし、要は“だって俺、芸人やん“っていう根深く鍛えられた、あるいは心細げとも取れなくもない“開き直り“のようなポーズこそを感じさせられなくもないだとか。



“お笑い界のトップ“ としての“安定“は失われたのかもしれない。
どこまでもお笑いを追求するストイックな姿勢や誠実な思いを期待して見込んだ、ファンや視聴者からの“信頼“こそ失調したのかもしれない。

とはいえ、人馬一体となって真っ直ぐとその先を見つめる姿勢は逆さまにあっても変わることはなく、その手にただ一つ残されたもの、たった一つのペンタクルを道標に彼個人としてたどり着くべき先をようやくとして見定め始めているのかもしれない。
気づきを得るタイミングなのかもしれない、だとか。

そんな彼を取り巻く空気は皮肉なほど明快な黄色、彼の真意を預けるには不相応にも見えかねない陽気か呑気か、その横顔の厳しさを、着込んだ鎧の頑強さを、強情さこそを徒に際立たせて見えなくもないだとか。



つまるところ、SNSやネットニュースで垣間見ることの進捗や日々更新される関係者たちの主張や動向は、当事者である彼自身のことなどではあるはずもない、という当たり前の見解に着地したがるものらしいのです。


妻帯者が合コンとかけしからん。
そう思うなら、きみこそがそうではない人であればいい。

有名な芸能人との高級ホテルでの部屋飲みなんて、ある程度疑ってかかる方が当たり前。
それでも高齢者ドライバーは、アクセルとブレーキを踏み間違えてしまうのだし、失われる悲しい事実は後を絶たないのだし。

自分は現場にいたからわかる。そんな人じゃない。守りたい。
常識に照らして、揶揄されてもやむなしとされるらしい場面にありふれて同席していたうちの一人にすぎない立場から横槍の如く確定的事実としてその正当性を叫びたがることが、社会的影響として比較にならない人物を救うとする自らの立場を立証するに有効な言質として標榜して許容される気がするらしいその無邪気な感性が、現状や今後の都合における救いたいはずの当事者やその関係者に対してどれほど効果的で感謝に値するものであり得るつもりなのか。



件の彼が裁判に勝っても負けても、彼の側に立って声を上げてくれた人に感謝を感じないはずは、表さないはずないですよね。

ただ、勘違いしてはいけないのはその必然性や必要性ということで、思いがけぬ助太刀も結構なのだけれど、誤解を恐れずにいうなら、男の子はどうせ勝つなら自分の力で勝ちたいでしょう、ということ。
もちろん仲間がいて力を合わせて勝つことも結構なのだけれど、それも場面によるということ。

有名人であることは差し引いても、一度ケチがつけば揶揄されても致し方ない場面を発端にした出来事に、巻き込んで巻き込まれて然るべき“仲間“はきっと限られるはずなんですよね。

“あのときはありがとうな。気持ちだけでも救われたわ“

なんて、件の彼はきっと言うはずなんですよ。
言うはずの彼でなければ、彼女だって身に余るような蜂起を仕出かしたりはしないはず。

とはいえ、彼にしてみれば有難くも強制されることではないはずなんですよね。
そういう人が現れた結果、礼を欠かせなくなるだけで。

欠かせなくさせた、という自覚がむしろ彼女自身にこそ欠かせないはずなんですよね。

だって、ただでさえ男の子として“格好の悪い戦い“でしかないんですから。
いざとなったら助けて欲しい魂胆で“高級ホテルで部屋飲み“なんて誘ったりするはずはないと思うんですよね。

だって、彼は“お笑い界のトップ“ですよ。
恥ずかしいことですよ。
並大抵ではないプライドを賭けて、取り繕うのに必死な場面なんですよ。



恥ずかしいこと、という前提を忘れた外野の騒ぎは、まったく滑稽でしかないはずなんですよね。



“信じてる“

“応援してるから帰ってきて欲しい“


ファンの口先としてわからなくはないんですけど、それをあまりにも“人間的“に主張しすぎる、うっとりと肯定したがるバランスの悪さが、“SNS“っていう手軽さでタチの悪いところだと個人的には常々思わされるところがあって。

これはまったく偏見に違いないんですけど、かたや芸能人、かたやたかが一般庶民として同じく共有するプラットフォームにあって、

“松本、動きます。“

だとか、個人的にはあの時点でとっくに彼のことがあまり好意的には思えなくなっていたし、件においてもまたしても、

“とうとう出たね……“

なんて、意味深長を履き違えたようなことさっそく仕出かして不要な波風を立てたりしたわけじゃないですか。


“信じてる“

“帰ってきて欲しい“


見るもの、見られるもの。

その関係性にどこまで健全性を期待できるかと言えば、むしろ携帯番号や住所なんて絶対に明かせない関係性に過ぎない、その程度には当たり前に不健全な不信頼性から成り立っているものであることをよほど健全に理解するべきはずなんですよね。


個人的には、件のことについてどちら側としても言い分が酌量されたり支持されることに興味はありません。

彼らがやっていることはそこらの若者たちがやっていることと何も変わらないはずですし、むしろ有名人であることを加味するならよほど格好の悪いことのように感じさせられなくもないし、そこに居合わせてままなる界隈の人々のそれぞれの思惑に至っては、聞くだけ野暮なりプライバシーの侵害なりと、よほどそれぞれの人間的事情らしく酌量できなくもない、そんな至って下世話な心境を思い付かされるばかりだったりします。

近頃話題の多い彼女の言い分というのは、個人的にはその程度のものとしての言い草、なんて言い方はひどいかもしれないですけど、確かに当事者である彼には有難くも余計な手間や気を遣わせることでしかない気がする、というのが率直な印象だったりします。


“とうとう出たね……“


なんて振る舞い方が、彼という何よりの人格を表すものであるなら、そればかりでもない気もしてしまうことももちろんなのですが。


“The World“

そんな彼を囲う結界はきっと頑強で、取り巻く人や動物たちは、所詮蚊帳の外に過ぎないはずなんでねすよね。

“ペンタクルのナイト“

逆さまであってもその姿勢に迷いはないらしい彼が見据えるものがどんなものであれ、やはり取り巻く空気は所詮能天気みたいな黄色一色。

そんな彼なりの孤独や悲しみは、

“信じてます“

“帰ってきて欲しい“

なんて、そんな易々とした信頼程度にはとっくに慣れ切って乾き切っているはずだし、とはいえそんな浴びれば浴びるほど覚える喉の渇きを潤したくて、そのための手筈をきっと間違えてしまっただけのはずなのだし、自惚れてしまっただけだと個人的には当たり前に想像させられるところだったりするわけなんです。

世間の多く人がとっくにそう感じて、そんな話題にこそとっくに飽き飽きしているはずなんだし。


喜ぶのは週刊誌ばかり。
確かにそうかもしれないですよね。

事実はきっとそれだけで、共感も反発も併せ呑んで、所詮“外野の嗜み“として、どっちを向いてもその主張は真意を汲みも語りもしないはずだし、それが世の中の仕組みとして存在する以上は、存在し得るなら、否定はできないはずだし、せめてはそんなものとの関わり方こそをそれぞれに考えるべきだとか、つまるところ個人的にはたかが言い分の違いとして、それぞれがそれぞれに面白がっているだけにしか見えない、というのが率直なところだったりします。



強いてなら、彼の魂胆はけっこう軽薄に見えて好ましくはない。
というのが、個人的には本音のところだったりします。

それは彼という社会的な役割とは別の話だと思うんですし。
何しろ世間はこの先も彼を必要として、許容したいものらしいんですし。
見るもの、見られるもの。
という単純な関係性として割り引いて見ることくらい、ちっとも難しくないんですし。



志村けんさんの不在が惜しまれる。
北野武さんの内心が慮られる。


だとか、つまり近頃の世の中についてことあるごとによほど感じさせられるのは、

“よきお手本“

 その認識、みたいなことばかりだったりするんですね。



もちろん、重々たる自戒を込めて。

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