諦め改革宣言
現代日本人のコミュニケーション能力っていうのは、ほぼ絶望的に崩壊していると個人的には完全に思っていてですね。
なんて、あたしみたいなのこそ一人語りのエネバンプレイヤーとして日々お客様のご機嫌こそを辟易なる惨状に貶める愚行を繰り返すばかりなんですが。
とはいえ、なんですよ。
あたしはあたしの話したいことばかりには異常者さながらに饒舌で語るに尽きない鬱陶しさとくるモノなんですけど、どうなんですか、個人的に感じさせられるにはこの世のほとんどの人たちについてむしろの如く”言葉を持たない”モノらしく感じさせられて仕方がないんですよね。
その上で、他人のことばかり気にして知った風なことばかり決めつけて言いたがるばかりの節がありありと見て取れる気がするのが、なんかものすごくイヤなんですよね。
実にシンプルな感情において。
見たままのことばかりの世の中のような気がしてしまうのは、なんとも味気のないことだと思うんですよ。
って、そんな言い方程度では”絶望的に崩壊”してる現代社会には一体何事なのやらさえ伝わらないでしょうことはもちろん承知の上なんですけど、それってつまりなぜなんだと思いますか。
あたしなりに考えるにはですね、”守られてる”からだと思うんですよね。
日本人の大半がそんな立場にあるからこそ、っていう社会構造として然るべき性質というか。
しかもそれって甚だしく無自覚で傲慢な思い込みであるはずなのに、そんなことすらもすっかり忘れ切ったモノらしい態度として然るべく平然と振舞われる思考される、望んだものでこそあるらしい”価値観”っていうねじくれた有り様のことのような気がするんですね。
個人的には日頃からそんな気ばかりがして仕方がないわけなんです馬鹿なので。
今日から新札発行ですか、楽しみですね。
まじですか。
そうしてまた一つ、退屈が食い潰せそうな気がしますか。
どうせすぐに当たり前みたいな顔して飽きちゃうだけには違いないこととはいえ、たかがそんな手前の一瞬だけでも、とか言っちゃったりしてな。
券売機や両替機なんかが欠かせない業種では、設備対応を諦めて廃業を決断するお店も少なくないんだとか。
それもそうかもなんですけど、そんなもんなんですかね。
パチンコなんてただの利権の塊だし、現金が面倒ならキャッシュレスにすればいいだけじゃん着いて来れないなら勝手に潰れろ、っていうのがたかが構造だなんてことはニュースは言わないし国も言わない、そんなことこそが余程のたかが事実って、なんかおかしなこと言ってますか。
資源問題としての紙不足を散々叫びながら、国中に行き渡る量の安くない手間のかかる紙を発行する。
したくないけどするにはそれなりの理由があって、それって皆さんがたかが髪切るのに高い金なんて払いたくないって考えることと大して変わらないと思うんですよね。
ニュースを聞きかじるだけの”見たまま”みたいな価値観にはそればっかでもいいかもなんですけど、「あそこのラーメンまじ美味え」とかまるきり自分が立てた手柄みたいな言い方してたの誰だっけ? なんてそんな自覚にみすみす辿り着かないことお祈りしたいわけなんですけど。
当てにするなりに、ブッ潰れてもそれはそれで退屈食い潰すただの一瞬の話題にはおあつらえ向き、だとかそんな傲慢さ鈍感さ図々しさって、世間は一体いつの間に脊髄反射レベルで身につけたんですかね、って頻繁に思わされる。
そんな場面にしょっちゅう出くわす気がしてるんですよね個人的には。
見たままのことがあなたにとっての事実ならそれはそれでいいんですけど、どうしてそれを自分以外の世間にも価値観として事実として同様であることを求めたがるのか決めつけたがるのか。
商売っていうものは世間一般にその体裁を明らかにしながら営むものですよ。
公明正大に、その印象や評価を投げ出して世間に晒して挑むものだと思ってます。
そんな有り様のことが、たかが一個人が見かけた瞬間の印象だけでその商売のすべてっていう事実として言い腐られる馬鹿馬鹿しさ馬鹿っぽさって、サラリーマンにはわかるはずないことだと思うんですよね。
その自惚れも甚だしい傲慢さだとか。
サラリーマンっていうのは、働く場所も仕事も役割も給料計算から税金管理のすべてに至るまでお任せして与えられてその上で文句を言う生意気さすら看過されながら限られた環境と人間関係っていう閉鎖的な、言い方を変えれば”守られた”環境で自分自身には蓋をして勘違いの如く安定的に与えられて勘違いすることすら許されながら一方的に他人と自分を見比べることばかりに敏感になって自分以下と思えそうな的ばかりを見つけては”あいつより自分はまだマシ”なんて腐れた根性をすっかり許容して自分を甘やかして忘れ去らなきゃやってられない地獄みたいな職業だと思うんですよね。
あたしはそういう腐れた根性しつけられるの大嫌いなのでその道をさっさと離れたわけなんですけど。
悪口に読み取れるなら、きっとあなたはやっぱりあたしがいう通りの飼い慣らされる安堵に慣れ切っただけの腐れた羊かと思うんですよ。
”守られてる”っていう自覚を逃れて自惚れた生意気者でしかないはずなんですよね。
自分以下と思える気がする他人ばかりを出汁にして生き逃れることばかりにご執心な、はっきり言ってただの性悪だと思うんですよね個人的には。
そんなもんが、あの店は流行ってるだの、一度行ってみたけど大したことねえ、だとか当てにするだけして時には行列してまで欲しがってみた上で、見下げるみたいに言いたいことまでを消費者お客様としての権利みたいに振り翳したがるらしいんですよね。
まじでアホかと思うんですつまり。
ウチは暇な店なんですけど、流行って見えるらしいお店に集まってんのって、行列してまで欲しがる類の人ってどんな人かと思うかってことなんですよ。
それってつまり、あなたが自覚するべき動機そのものってことでこそあって。
悪しき魂胆に思い当たらないこと願うんですけど。
人を集めるお店さんは立派ですよ。
トレードオフで食い荒らされて腹の中はとっくに腐ってるとは思うけど。
つまり何が言いたいかって、集まる場所に集まりたがるばかりの人間があたしはシンプルに信用ならないってことなんですよね。
手のひらで調べて食い漁るたちの”利口なつもり”みたいな人々のことがあたしは直観的に全く信用ならないってことです。
伝わらないと思うんですけど、そういうタイプの人には伝わるわけない理由で突き通る商売をしたいって、ずっと思い続けて今日も続けてるんですよね、二足の草鞋も厭わず恥じらわず。
そんなもんを、そんなもん程度でいいものと値踏みしたがるタイプの人って、多分この世の大半を占めてると思うんですよね実際。
暇になるに決まってるじゃないですか、暇になるより自惚れた”守られた”人々の勘違いに付き合わされる方が馬鹿馬鹿しくて辛抱ならないだけなんですから。
もちろん、”守られた”人々にそんな価値観は言い訳にしか受け止められないことだって承知してますよ。
だから、コミュニケーションはとっくに崩壊してるって言ってるんですし。
でも、あたしはそれでも生きていけなきゃせめて自分ばっかとしたって意味ないでしょ、っていう人生を生きたいばっか。
キテレツすぎてわかりにくいことでしょうな、”守られた”人生を選択して食いしばって生きる賢い人々には。
決まりに守られて、つまりはそれに従って生きる胆力、それを持つ人々はすごいですよ。
だって、あたしにはそれができない。
晒して見下されていちいち憤る生き方の方が、余程楽ちんなだけで。
我慢できるはずないことを受け入れて、そのトレードオフとして安定した”守られた”豊かな暮らしを得ている人々のことを、あたしは見下すつもりなんて爪の先ほどもないってお話をずっとしてるんですけど、ちっともそんな風には読み取れていない人がほとんどのはずなんですよね。
世間って、そういうヒステリックな情動が何より先に立つもののはずなんですし。
あたしには、規則や環境に従うことを職業にすることなんてできないです。
そんな整った立派な人間なんかではちっともないので。
とはいえこれって逆さまの話、あなたならどうなんですか。
一から全てを整えて場所を作り仕事を作りお客を作る。
あなたたった一人のすることに、どれほどの人が何度も何度も何年も、付き合ってくれると思いますか。
集まってくれると思いますかいちいち足運んでくれると思いますか。
あたしはその性能が低いって自覚のはなしをしているだけです。
そんな旨も理解した上で、あなた自身を自覚した上で、あたしんちのことちゃんと馬鹿にできてますか相応しく見下せてますか。
”守られた”身の上で豊かに生きることを決めた整った人物として。
悪口に読み取れるなら、相性が悪いだけだと思うんですよね。
あたしはこの世の商売の原理をとっくに古臭いと思っているし常識を外れてもっと改革していきたいと考えるばかりなので、ご理解頂けなければお別れの日はそんなに遠くないとも覚悟するわけです。
あたしはそれぞれにそれぞれの立場や理解や必要があってこそ、ということを自分なりにふまえた上で、そんなつもりで日々の感謝を忘れないように心掛けているし、感謝にごまかさず時に反発することすら厭わない覚悟と意志をもって互いの認識を戦わせたいって常から思ってるってことです。
伝わりにくいことかもしれないですけど、これはあたしなりの見栄と経験として、さらされてこそ備わる至極真っ当な意志だと思っているし、”守られた”立場ばっかからの取り違えた古臭い言い草なんて百歩引いたとこから相手にされるつもりで言ってみろ聞いてねえから、くらいのことは当たり前に思ってます実際。
選択的な”損得”っていう違いに憤るのは、せめて自立の丈としてのレバレッジは作用して然るべきもののはずですし、”守られる”ことで宿命的にコントロールを剥奪される立場が”損得”に耽る気持ちはあたしにだってわからないこともないですし、”守られない”からこそコントロールすら自由であるあたしみたいな立場の人間は、その主張に忖度なんて持ち込むわけにはいかないはず、そんなもん全然意味なかった、っていよいよ諦め始めているところがあるんですね。
信じられないかもしれないですけど、あたしはこのお陰様の二十年近く、ずっと気を遣ってきたし遠慮してきたし安売りにかまけてずっと舐められ続けてきたし腹を立てても諦めずにきたわけなんですよねお陰様をもちまして。
そんな気にはこれっぽっちもさせられないことがほとんどだったことこそが何より有り難かったんですし。
そんな上で、いまだに嘲笑うようなことを平気で言われることがここのところ重なって、はっきり言って嫌になりました。
二十年近くも過ごして、いまだにその程度でしかない自分自身のことがとても残念でした。
すべては自分のせいだし、あたしの商売ははっきりと間違ってたって、諦めがついた気がしたんですね。
馬鹿すぎて自分で自分が手に負えないです。
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