オススメするけど、勘違いするのはきみだから
岡田斗司夫さんがYouTubeで”中二ヒス構文”っていうお話をされていたんです。
わからない人にはなんのことやらさっぱりのワードに違いないはずなんですけど、”構文”って言い回しくらいなら案外見聞きしたことあるんじゃないですか、”進次郎構文”だとか近頃なら”石丸構文”だとかってアレのこと。
その人が言いがち話しがちみたいな”言い回し”を”構文”という建て付けにすり替えて揶揄する”言い回し”なんちゃって相変わらず回りくどい言い回し。
”中二ヒス構文”
中学二年生的エモーション。
青臭く純粋で、とはいえただの勘違いには違いない無邪気でナルシスティックな自己愛が奔放かつ無自覚に発動させるヒステリックな妄想、言動。
そんな”構文”
そんなものを、近頃は大の大人が振る舞いがちであるらしいことをあらかじめ危惧する氏による指摘あるいは注意喚起、といった文脈に触れながら、とっくに心当たりがあったわけなんですよね。
大得意だ、と。
岡田氏曰く、”それをやっていると、だんだんと人が離れていくよ”とのこと。
かねてより氏は”ホワイト社会”なるこれからの社会の在り方という予測あるいは定義を示されているのだけれど、なるほどと思わされつつもそれが既定路線かあるいは良識なる変遷の予測か定義であるらしく酌量されがちでありそうな文脈らしく形成されていることにはまったく触れられないことに、あたし程度の低脳は少なからず違和感を都度に覚えるもので、とはいえそれは否定でも嫌厭する意図でもなくむしろ、”事実ではあっても真意ではない”という良識にこそ優れた”穏便なる処世術”としてのススメ、であるはずといった積極的酌量のつもりでこそあって。
つまりは何が言いたいかって。
”社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ための”オススメ構文”として、あたしなんかは氏のお話は常にそんな尺度で受け止めるもので。
”真意と良識は、別物だよ”という言い方によっては身も蓋もないことになりかねない”オススメ”なのだけれど、だからこそ、なんですよね。
近頃執念深く綴り始めた、再開したこのブログ、完全に”中二ヒス構文”ですよ。
完全に自覚がありますし、むしろそうでなければならん、という自分でも手に負えないばかりのエモーションズ、とあえて複数形にしてしまいたくなるマラキャリ世代としてたかが個人的心境としてこそ、意図的にその特性を隠す気のかけらもなくやっているわけで。
”それをやっていると、だんだんと人が離れていくよ”
氏、曰く。
なのだ。
しまった、と一瞬でも思ったなら負け。
あたしは一瞬どころではなく思ったはずで、とはいえそれは三分にも満たなかったと思う。
いやいや、と。
”それをやっていると、だんだんと人が離れていくよ”という”それをやろうとしているんだよ”
のはずだったって、すぐに思い直した半世紀仕込みの中二マインド。
きっと伝わらないと思うんですけど。
つまりそれって、”どんな人が離れていくの?”ってことが、たぶんあたしにはよほど深刻な、重要な、見過ごせない譲れるわけない本音のはずで、あたしの”エモーションズ”はそれこそを目指して言い分も言葉すらも選ばないものであるはずだよな、日和らないつもりのはずだよなしっかりしろ自分、って結構すぐに思い当たったわけなんですよね。
”社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ための”オススメ構文”
社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ことを求めたがる人って、どんな人なのか。
それを自身の欲求として、本音としてあるいはまったくそのつもりとして標榜したがる人って。
あたしは偏見も思い込みも当てつけも、つまりは自分以外のものすべてについて兎角好戦的に決め撃ち的に”毛嫌い”というバッシングスケール丸出しにおいて値踏みして見下すのが基本スタンスだったりするのでつまりはそういうこと、
”そんなもんが自分から離れたからって、それがどうした”
って、秒で思い当たるしかないわけです所詮。
だって、”社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ことを良識として、望まれる社会性として肯定してきたものらしい、今後より一層それに敏感にありたがるらしいそんな人々が大半であるらしい現代社会って、どうですか。
伝わらないならそれでもいいんですけど、あたしはただの個人的感覚というかそれこそ個人的”良識”において、自身に心得るべきと躾けたがる”社会性”において、
”社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ことを”良識”として、好ましい”社会性”として自らに躾けたがるような、振る舞えるつもりでいるらしい計算高いばかりの人間なんて、社会性なんて、これっぽっちも信用したくないし基準になんて捉えたくないし何よりつまらんと、当たり前に感じてしまうんですよね。
これほど秘匿的に裏ぶれて我よしとして行列大好きだけどちっともそんなふうには見られたくないだけの”臆病な羊”の耳に優しいだけ心地いいために考案される”オススメ構文”なんてものはこれっぽっちも鵜呑みに出来ないし、氏はそんな自己矛盾たる”オススメ”を常にエンタメとして割り切って振る舞われるにすぎないものとして、”良識”などと定義するつもりは微塵もないことくらい当たり前に理解して参考にさせてもらいたいと思うばかりなんです。
岡田氏の考察はもっともだと感じさせられるし、”刺さる”だとか、欲しがるばかりの見窄らしいエモーションに一喜一憂したがる安上がりなコンテンツ乞食であるつもりはないし、ただの一視聴者として、差し出された意図を自立した理解を憚らず卑屈に逃れずたかが自分として率直に刺激されつつ思い付かされつつ、楽しませていただくばかりなんです。
”良識”って、なんですか。
そんな話がしたくなってきたな。
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