思想舐めんな

 気分ばっかの話なんじゃないのかと、思わされないでもないんですよ個人的には。


史上最大の盛り上がりを見せた”都知事選”だとかなんとか。

確かにそんな風に見えなくも感じさせられなくもなかった気もしなくもないんですけど、って早速煮え切らないような言い方になってしまうのは、所詮そんな建て付けにこれっぽっちも共感が持てないからに決まっているわけで。


”誰に投票したらいいのかわからない”

だとかって、そんな言質をかなり見かけた耳にした気がするんですけど、それってもっともらしくも所詮一部の言い草でしかなかった、それどころかそもそも投票行動から面倒でしかない気がしているのかも知れない類の人たちの言い訳らしくもっともらしいだけの言い草でしかなかったらしい”選挙結果”と言っても過言ではないような気が個人的にはしてしまうわけなんですよね。


別に、それが悪いって言いたいんじゃなくて。


実際、”タレント”に乏しかったってことなんじゃないのかな、だとか。

だって、所詮”話題性”とか見慣れたもん勝ちの”人気投票”みたいなものでしょ日本の”選挙”なんてものは。

だとか。




というか、もしかしたらあたしみたいなへそ曲がりに言わせたら、むしろ熱心に街頭演説なんかに駆けつけて熱心に声を上げていた保守系か改革革新派か何かよくわからないですけど、つまりは現状を憂う嘆く向きの主張に引きずられがちな、ちっとも間違っていないまともな理解や姿勢を隠さない人々たちの方が、むしろまんまと”選挙”っていう手法に乗せられてしまっただけなんじゃないか、なんて感じさせられないでもないところがなくもなくてですね。


だって、あたしみたいのに言わせればこの世は、この世の多勢を占めるものらしい感性や理解なんてものは、ほとんどまったく無自覚に自惚れただけの馬鹿ばっか、みたいな気ばかりがしているわけで。

唯一褒められる気がするというかそんな言い方もないんですけど、まあまあだったなと思える点があるとすれば、たとえ5ポイントばかりとはいえ前回選挙よりも投票率が上がった点で、それでも60%という水準は”組織票”を覆すには足りなすぎる結果ということで、ましな上にも所詮、的な印象こそ拭えないわけで。


結果ばかりに目を奪われて、それに至るまでの状況を踏まえた”総括”的な理解を、いったいどれほどの人々がごく個人的な理解においてでも思いをはせられるものなのか、感じる、考えんとするものなのか。個人的にはあんまり期待も興味も持てそうにない気がしているわけで。

もちろんテレビなんかはまったくというほど見ない人間なので、その手の解説にも誘導にもたかが決めつけにすら縁はないものなんですけど、事態はとっくに”祭りのあと”らしく、きっと”数字取れそうにない後追い記事らしく手仕舞いが図られることは想像に難くなく。

だって、”今後”って脅迫みたいな話をする方が何より煙に巻くに手っ取り早いことは火を見るより明らかな気がするじゃないですか。

”なにも変わらない”っていう失望をいかに適切に宥めすかしつつ、今後ますますやりたい放題っていう手法に向かうしかない都政かひいては国家運営っていうちっとも主権なんてありもしない話をいかにもっともらしくすり替えるのか、そんなお話がとっくに織り込み済みみたいな話でしかない気がしてしまうんですよね。


だって、そもそもおかしかったじゃないですか。

候補者、五十六人。

なんですかそれ、って。


その時点で当たり前に違和感を思いつけない、その仕組みか企みのようなことを思いつけない人は馬鹿ですよ。

ええ格好しいなだけの空っぽ馬鹿。

供託金300万ですよ。

このご時世にどんな虚栄心か承認欲求だのなんだのってそんなことばっかのために、白い目で見られるだけのことにそんなお金を費やせる物好きがいると思いますか。

それが事実なら、そんなもんただの気狂いですよ。

っていうか、政見放送ばっかは SNSであげつらわれてまんまと晒し者らしく面白がられるまではよかったですけど、その後の選挙活動なり妨害活動でもたかがパフォーマンスでもあちこちで報道されてましたかちょっとくらいそれぞれに見受けられましたか。

あたしはマスコミにイジられて逆ギレする破廉恥ジョーカーくらいしか見かけなかったですけどね。


立花は相変わらずの策士として選挙を食い物にしたはずですしその目的は単なる利害共有としての合意がなされたに過ぎないなんてことは世間広く語られてあくびも出ない話のはずなんですけど、もはや風物詩みたいなドクター中松とか後藤輝樹なんてほとんど話題にもならなかったどころか馬鹿と破廉恥に揉み消されたばっかにしか見えないことの真相って、例えばあなたならどんなふうに想像して説明できる気がしますか。


あたしはほとんど”エンタメ”としてしか今の世の中なんて眺められなくなって久しいのでこれもまたそんな一つの”想像エンタメ”として、ってことなんですけど。


”都知事選”なんちゃって、そんなもんとっくに乗っ取られたたかが目くらませのお祭りみたいだなものでしかなかったはずって、思ってるとこあるんですよね。

馬鹿みたいな候補者の行列眺めてすぐに思ったんですよ、こんなもんいいように食い物にされてるだけ、しかも散々舐め腐って憚る気もない馬鹿みたいな乗っ取りの手口だって。

どうして五十六人なんて目に余るほどの馬鹿が立候補したのか。

ほとんど具体的選挙活動も見受けられないような馬鹿が。


簡単ですよね、それこそが目的に決まってる。

”馬鹿ばっか”

有権者にそう思わせることこそが彼らの役目だったんじゃないのかって、あたしは公示前からとっくに思ってたんですよね。

”都知事選なんてあんな馬鹿っぽいもんどうでもいい”

有権者に効果的にそんな刷り込みを与えるには、馬鹿や破廉恥が手っ取り早いことくらいすぐに想像つきますよね。

”組織票”っていう選挙手法を盤石にするのに手っ取り早いのは、投票率を下げることに他ならないわけなんですし。

せめて褒めれる点としてたとえ5ポイントばかりとはいえ、って指摘したのはそういうこと。

YouTubeやSNSなんかに揺動されて何らかの行動を起こした人も少なくはなかったってことだと思うんですよね。

とはいえそれもただのガス抜きみたいに見えなくもなかったなんてまた酷いこと言ってしまったりもするんですけど。

一つの”ムーブメント”として、二、三年前にも見たことある気がしたんですよね、参政党が盛り上がった時期とかあったじゃないですか。

あたしもその当時は注目してたんですけど、どこかのタイミングでなんかおかしいな、難しいなって思い始めて気持ち離れちゃったんですよね。

そう感じさせれたものと同じものが、この度の都知事選に再集結したみたいだとか、そんな感じに見えなくもない気がしちゃったんですよ。

うつみさん、田母神さんとか保守系の候補者の皆さんは本当に頑張ったと思うし、それと同じくらいに背反する、矛盾する気持ちになんとか蓋をしながらの粉骨砕身も甚だしい選挙戦、本当に大変なことだったろうななんて、たかが田舎の見物人がそれにしても痛み入るような気持ちばかりを思い付かされるんですよ。

あんなお祭り騒ぎみたいな景色を呼び起こすしか、今はまだ方法がないことに誰よりも失望しながらそれでもそうするしかない矛盾にきっと苦しまれたはずだと思うんですよね。

それは演説の言葉の端々にも滲んだものと思うんですけど、大半の聴衆はそれをわからずかわかりながらでも聞き逃したい人がほとんどだった気がするし、拳を振り上げても登壇して訴えるまでの言葉や理解を持たない人たちがほとんどであることは明らかだったと思うし、むしろ”民意”とか”民衆”っていうのはそれほどにも当てにならないか弱いものがようやくとしてより集まるものでしかないんだと思うし、そんなはずはないって、嘘でもそうあるべきと声を枯らして叫ぶことしか今だにあるべき姿勢や主張を叫ばずにはいられない人たちは心強く誓って、あたしみたいな卑怯なことは決して言えない言うはずもない人たちなんですよね。

民衆の大半なんて、馬鹿げた候補者掲示板一つでため息吐き捨てて戦線離脱が関の山だというのに。

まんまと誘導されてその気もなく放棄するばかりなのに。

10%届かなかったという現実は、それを明らかに示すばかりのことのような気がしてしまうんですよね。


伝わらないと思うのであたしはあたしの”エンタメ”として言わずにはおけないから言ってしまうんですけど、その茶番ぶりをあっけらかんとでも嘆かわしくでも個人的ばかりでも想像しろってことなんですよ。


あたしは”エンタメ”として、あんなもんただの”背乗り妨害選挙”だと思ってますから。

どっかの誰かが手を引いた”供託金詐欺”だとか、こじつけとしてまだまだ可愛らしいと思うんですよね。

人間なんて、金を出汁にするばっかではどうせどこかでボロ出すし裏切るんですよ。

ボロいって、そういうことでしかないことあんまり想像できない人って少なくない気がするんですよね。

それって、そういう人自身が”お金”っていうボロさを何よりの動機として自分自身を日々手懐けて飼い殺しにしてるからだと思うんですよね。

そういうダサい魂胆を自分に言い聞かせてとっくに慣れきってるからだと思うんですよ。



どうして人類は”宗教”というものを思いついて、それを必要としてしまうのか。


それだけで意味を汲める人はまだ望みがあるし賢い方、まだ薄汚れ程度から引き返せるかもしれない人だと思うんですよ、手加減ながらとはいえ。

人間を手玉に取るには、何より効果的に操るものって結局、”思想”だと思うんですよ。


”思想”に駆られた人間っていうのは、絶対に裏切らない。


嘘だと思いますか?

たかが商人の、たかが変わり者の言い草と思いますか。

だって、頭の中でちょろっと眺めてみてくださいよ。

西側って、どういうことだと思いますか。

キリスト教ですよ。

じゃあ東側って何。

所詮似たような、それ以外ってことなんじゃないですか。

中国は自分たちのルーツ以外を認めない絶対主義の中華思想、ロシアはローマの欺瞞を嫌った”正教”って建て付け、中東はキリストを横取りしたみたいなイスラム、所詮は同じ神を崇める対立軸にあって、仏教もやっぱりキリスト教のネストリウス派っていう異解釈から生み出されたものなんでしょ。

どうして西と東として喧嘩するのかって、”絶対”とするそれぞれの”神”をそれぞれの立場として主張して争うからですよね。

誰が先で偉いのかって、そんなシェア争いをしてるばっかに違いなくないですか。

”絶対”とする主義主張を誇るってことは執念だし、裏切りようのないイデオロギーのことだと思うんですよ。

”民族”って、それぞれの”思想”っていう主張のことだとあたしなんかは当たり前に理解するところがあって。


つまり、そんなイデオロギーにかこつけて乗っ取られた、食い物にされた”都知事選”っていうすべては織り込み済みの茶番ってことでしかなかったんじゃないですか、っていうのがあたしなりの率直な理解か見解のようなものってことです。


そんなもんに、たかが一部っぽい日本中の”流されやすい人々”がまんまとその気にさせられた、反旗あるいは対立に猛る”ガス抜き”に駆り出されただけの”国民誘導劇場”みたいなものでしかなかったんじゃないのかってとっくに思ってたわけです。

真剣な候補者の方々の悲痛ばかりが際立つ、どう足掻こうがままならなさばかりが際立つ選挙戦とすら呼べそうにない茶番劇場でしかなかった気がしてしまうんですよね。


近頃って、いかなる状況や場面や動機も、みんな同じのような気がするんですよ。

まともな人ほど、”頑張ってください、応援してます”なんてこと、ちっとも言われたくないって思ってるはずなんですよね。

世間の片隅に巣食うたかがゴミムシ商人風情なりに、その気持ちが痛いほどわかるというか。


”国民運動だ”って、かつて参政党の神谷代表は声を枯らして叫んでいらっしゃったけれど、あたしはその真意が届かないことを何となく感じていたし、そういう訴え方しかない居た堪れなさみたいなものばかりを読みとってしまう居心地の悪さをずっと感じていたし、そんな違和感を今は何としても自身の中に押しとどめて声を枯らすより仕方がない至極真っ当な志を持つ人たちの訴えを、いつの間にやらやるせなく受け止めることしかできなくなっているあたし自身のことが、何だかすごく面倒臭く、そんな自覚ばかりをここ数年ブスブスと飼い殺してる気がするんですよ。


だからって、街頭を埋め尽くす熱心な聴衆に紛れたいかったら、そんな気はこれっぽっちもないし。


どうしてかったら、たかがそんなあたし自身の反発的な私生活か商売風景の中にすら、そんな熱心な姿勢か志のようなことを感じさせてくれる人なんか、これっぽっちも見かけたことがないから、だと思うんですよね。


あたしは馬鹿なんですけど、結構熱心な話をしたい気持ちばかりはあるし、そのための思想や言葉も素人臭いなりにも少なくはないつもりでいるんですよね。

聞かされて、諭されて拳を振り上げたいような類の主張とは違う、もっとジメジメとした、とはいえはっきりと主張して憚らずにいたいと思うくらいは簡単でごく個人的とはいえ他人と戦わせて当たり負けるつもりなんてないくらいには一貫した主張があるつもりでいるし、そんなもの以外に付き合わせて死ぬなんて辛抱ならないくらいには、抱えて死にたいものくらいあるつもりでいるんですよね。


それは、街頭を埋め尽くして共有できるような清々しいものでも熱心なものでも何でもなくて、とはいえ自分以外に諭されて焚き付けられてその気になりたいほどさせて欲しいほど器用でも物分かりのいいものでもないことくらいわかってるんですよ。


勝手に想像して決めつけるには、この度の選挙で勇ましく戦い抜いた保守系の候補者の誰もが違わず期待したかったもの、聴衆に望んだものって、それぞれが肩を組んで同じ思想で結びつきたがる、そんな柔な理解や志なんてものではなくて、それぞれのものでもいいから自分の言葉で心強く訴えるに適う、いつでも言語化できるそれぞれの魂のようなものを焚き付けたかった訴えたかった、それに適うものを掘り起こして巻き起こしたかったはずで、”お疲れさん、また次回です。これからです”なんて労いなんて鬱陶しくて呑気すぎて死にたくなるような苛立ちを心の奥の奥まで隠しきって、今日の今もどうしようもない失望と戦ってるままなんじゃないのか、なんて失礼でしかない勝手なことばかり、ついつい思ってしまったりするんですよね。


どうしてきみたちはこの場所に集まってくれたの。


その一つ一つの声を、もっと具体的に奔放に自由に、逞しいものとしてもっともっとかき集めたかったであろう心ある強い意志を持つ候補者たちに、今の日本の人たちはどんな労いを思いつけるのか。

それが場面や出来事ばかりの、この都度ばかりの話のように感じることしかできない、理解できないことが何よりの問題だし課題のような気があたしみたいな馬鹿ですらたかが感覚的なものとしても当たり前に察してしまうのだし、そのために必要な、”基本のき”みたいな当たり前すぎる道義的理解のようなものか姿勢のようなものが今の日本人の大半から、それってもちろんあたし自身も含めて嘆かわしく欠落している気がするし、何ならわざと遠ざけたがってるとすら感じさせられないでもない気がしてるんですよね。

何かの機会をきっかけとして、そういうことを改めて感じさせられるならそれは愚かしく鈍い話のはずで、せめて言い訳させてもらえるなら、あたしはそんな愚かな国民っていう大半の感性に混ぜ込まれるつもりはないとするなら、やっぱり”それぞれの日常”っていう根拠や説得力に努めることでしかそれは実現されないことのような気がしてる、ってことなんですよね。


だから、”今の世の中なんてこれっぽっちも共感しない、大っ嫌いだ”って、あたしは何かにつけ言って憚らないもののつもりだし、それを白状して嫌われることを恐れることだけは絶対に自分に許したくないって思うしかないんですよね。


選挙が信じられないなら、せめて自分ばっかでも信じられるものを探して誓うしかないでしょう。


そのためになら、たとえ他人からは見苦しく見られようがちっとも構わない自分ばっかでも信じられるものくらい見つけることは、そんなに難しくない気がしてるんですよね。

どうしてそんなにいつも不機嫌なのか。

それがあたしばっかの根拠で理由であることを、あたしは自分ばっかにでもちゃんと説明できるべきだということは常から意識していることで、無意識のうちにもやってることのような気がしてるんですよね。



与えられることばかりを期待する、わかりやすいことばかり信用したがるこの世の大半が、大嫌い。



ずっとはっきりと生きたいと常から思ってるわけです。

そんなこともできないなんて馬鹿みたいですし、つまんないので。



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