胎内記憶も風の時代も、括って当てにしたがるだけなら雑音でしかない
これまでよりはさも積極的な、とはいえ所詮依存的でどこまでも願望ばかりに触発される、これからの世の中は、日本人のほとんどが、とても気持ちの悪いものになる。
世界のことなんてわからない。
そもそも世の中のことなんてわからない。
とはいえごく個人的に、当たり前にそんな流れを、世の中か人々の流れのようなことを当たり前に、そんなふうに見越してしまう。
そんな気分、ということではなく案外どころかしっくりと自覚的に、見込んでいる。
決めつけている。
疑いもない。
親しみなど、これっぽっちも思いつけない欺瞞に満ちたことを考えてるのは他でもあたし自身ということだ。
“風の時代” なんてことを言う。
そんなことをまったく違和感なく、むしろ期待的に、歓迎的に、待ちかねるが如く待ち侘びた人々は少なくないらしくて、もちろんあたしもそんな一人に違いなかったはずなのだ。
そうしてその期限はとっくに過ぎて、開幕。
”風の時代” はとっくに、それぞれの“時代”らしく授けられたはずなのだ。
違和感も期待も歓迎も、積極的も依存的も願望も勝手にしたらいい。
そんな期限はとっくに訪れて、人々は期待と願望と依存か歓迎か、どれでも好き放題のそれぞれの事態に遭遇しているはずなのだ。
とっくにそれを許された。
248年という人間一人の性能では乗り越えようもない時間をたかがタイミングで幸運にも乗りこえて、遭遇し存在するに適う”風の時代”
待ちかねた諸君、いかがお過ごしですか。
そんな一人としてあたしは、なんのこともないです。
世の中は停滞を隠さないし、それに抗うべく沈殿する個々という判断か態度のようなものをひたすらに遠ざけて眺めながら、せいぜいは腹を立てないことを自らに言い聞かせるか躾けるしかないだけのような気がしているし、とはいえやけに精神的な、俯瞰的な思考の見解のような態度こそは“風の時代”を期待して待ち侘びる中で軽々しくも見知ったつもりで己の愚かしさを嘲笑うことに恥ずかしげもなくやりこなすらしいのだし、むしろそんな態度か自意識のようなものの普遍性を願いたがるものらしいのだし、案外整ったもののつもりでいるらしいのだ。
願望、とはどういった心づもりのことなのか。
結局はかなり基本的な地点としてそんなことばかりを根拠に据えたがるものらしくて、自分自身こそを危うく、気恥ずかしく自覚させられることが少ない。
願望とか欲求とか、それは自分自身に毒の如く甘いことで、赦しのある迷い道みたいなものだとつくづく考える。
きみは何が欲しいはずだったんだっけ?
きみとはもちろんあたし自身のことで、ほとんど憧れに近いような存在のはずで。
いまだちっとも敵わない身近さにあって、手厳しく諫める存在ですらあって。
気持ちの悪いものになる。
それにまんまと加わりたくない、含められたくない見栄が迸る。
自我、なんてほどの見栄にも適わない案外凛とした、ほとんど願望に違わない感情。
あるいは欲求的な思考。
これから人々はやけに理性的であることを信望して祈念して要求する、自分にも他人にも。
騙してはいけない、お金も性も社会的欲求もすべては束縛的支配の手口かたかがトラップ、人類すべてに仕掛けられたハニートラップはそれぞれにおいてさまざまで、あるいはそんなことに自覚的であるべきとする“心づもり” 、そんな心得を使いこなしたがる態度のようなことを”スピリチュアル”だとか、仮託して標榜しながら自我らしく己に据える、ままなるものとして的を射る、射られたのは的ではなくもちろんそんな人々自身のはずであることこそ明らかなはずで、酷い性格をしたあたしはたかが個人的に、”風の時代”なんてもののレベルゲージは開幕にしてとっくにマックス値、それぞれの適性か正体のようなものはそれぞれとしてまったく明らかに、とっくに晒されたものではないのかと思っていたりする。
道議が足りない。
あるいは、欠落している。
それは誰のことでもなく、常にあたし自身があたし自身に向けて揶揄する、苛まれるべき自覚のような態度、あるいは自覚のようなものの指針として、写す鏡のようなもののつもりでわざわざ意識することがとっくに癖みたいに成り果てた面倒な意識のようなことのはずで、とはいえ案外信頼しているし、疑いこそなくまったく気に入っている。
“手放しなさい”
例えば誰かが、影響力があるとされる何者かがそんなことを言う。
“わくわくしているか、それが肝心” だとか、そんことを言ったりもする。
馬鹿馬鹿しい、なんてことはこれっぽっちも思わない。
それどころか、あたしは誰よりも気分でしか生きていない気がするし、興味の向くことしか出来ない、そんな自惚れた自分自身ばかりのための道義に引き摺られた人生をずっと生き続けている。
違う言い方をするなら、そんなこととっくにやっているとかそんな感じですらあったりする。
すごいだろ、とかそんなことを言いたいのではない。
とはいえ、”手放しなさい”と言われてずぶに受け入れて、“手放し”という手段を念仏の如く唱えながら行動に耽る、それが答えか真理の如く疑いもなく振る舞ってそうして待ち受ける事態に疑いもなく期待したがる類の人々に見受けがちな気がしてしまう、そんなたかが個人という、自分自身という主体性の放棄か、易く適いたがるかのような信心あるいはたかが妄執のような素直さは、酷い言い方かもしれないけれどつまり、馬鹿なんじゃないのか、だとかつい思ってしまう。
道義が足りない。
それは何も大袈裟に世間を枠に捉えたようなことではないのだ。
むしろ、たかが自分自身ばかりに限ったケチ臭い、身勝手な話でこそあるはずで。
”手放しなさい”
それは結構なことだと思う。
生意気なことを言って仕舞えば、あたしみたいな馬鹿な人間から見てもこの世の多くの人々が無駄な不安や見栄や執着や他人軸に囚われたようなことばかりにこだわって、それもほとんどが無自覚に食いしばるような、そんな誤解じみた幸せばかりを渇望する迷路のような道をすすんで見えなくもない気がしてしまうのだ。
ちっとも仲良くなれなそうだし、なりたくないとすら感じてしまう。
酷い言い草だと自分でも思うのだけれど、事実正直な感情なのだから仕方がない。
自ら”手放す”ということを選べるなら、自覚するならそれは大層結構なことだと思えなくはないのだ。
肝心は、どうして”手放す”べきなのか、ということではないのかと、それを考えることきづくことなのではないのかと、あたし自身は当たり前に考えてしまう。
考えた結果、”手放す”べきではないことだってきっとあるはずなのだ。
もちろん”手放す”べきことも自覚されるのはその結果として、つまり”道義”とはそれを分つ差分のようなものとして自覚して発動する”自分自身”というさも積極的な意識でこそあるはずで、”スピリチュアル”とはつまり、そういう俯瞰的かつ自覚的な判断や振る舞いに適う思考的独立か積極的な自意識にあたり負けない”必然”を振る舞う、見据える意識や境地を知るべく向かう態度や理性のことではないのか。
“何日の何時までにこれをすれば叶う”とか、”いつなん時のエネルギーを”だとかさも願望的に旨みの強そうなサムネイルが氾濫してそれなりの再生数を誇るものらしいのだけれど、そんな有り様を目にするにつけ常に思ってしまうことは、”願望”ってつまり何なのかとかそういうこと。
叶うならその理由は何でもいい、何なら自らは手を下すことなく、差し出すことなく負荷を追うことなく、時節だとかエネルギーだとか宇宙だとかなんでもござれでもとにかくはそれが大層なもので万能なもので、そんなものが勝手にお節介に自分を自分の願望に連れ去って奢って叶えてくれるなら儲けもの、ってそんな”願望”って本当に“願望”なのか。
そんなにまでも見境なく叶えたがるものなのか。
”願望”という欲求を否定する気はこれっぽっちもないけれど、たかが個人的な”道義”に預けてそれを見定めるなら、それを”叶える”のは何なのか、誰なのか。
”願望”とはその結果を指すのではなく、それを叶える段階、つまりはその道を辿る自分自身という姿、その経過に適う自分自身にこそ出会いたがる切なる”欲求”のことではないのか。
自分の”願望”を叶えるに足る”自分自身”に出会いたがる一生を駆け抜ける切なる”欲求”ではないのか。
”手放しなさい”
どうして他人が指し示すそれを鵜呑みにして没頭して目指すものがその人の”願望”に適うもの、叶えるに足るものと信じられるのか。
信じたくなるのか。
あたしは馬鹿なので、”スピリチュアル”歴は近頃の流行りに照らすなら比較にならないくらい長いし、歴史や宗教、神話や宇宙や都市伝説に至るまで、自分でも馬鹿げて呆れたくなるくらい結構早くから食いついて貪ってきたかなり偏ったアンテナで生きる人間である自覚はとっくにあって、その上で引かれながら案外嫌い続けてきた自覚こそあって、とはいえそれは嫌悪ではなくむしろ信望やたかが個人的理解が思いつかせる当然でしかない”違和感”こそが黙らせてはくれない切なる異議の発露のはずで、あたしは”スピリチュアル”というものを否定する気などこれっぽっちもないのだ。
ただ、その誤解に苛まれがちな性質を見過ごすつもりはないし、そう考える自分なりの”道義”というものを意識するばかりに複雑になってしまうだけだと思っている。
気持ちの悪い世の中になる。
全然間違ったことは言っていないし、わからないことなんてこれっぽっちもないけれど、例えば“胎内記憶”だとか、それを厳かに優しげに酌量してこの世の実存的傲慢を嘆いたり揶揄したい気にはなれなかったりする。
その根拠のあり方、その理解の踏まえ方のようなことだと、個人的にはそんな”違和感”のようなことのつもりで言っている。
胎内記憶を以て、それを維持しながら伝えるべき役割を持ってこの世に現れるらしい子どもたちというその健気な意識か不思議を否定するきも批判する気もないし、考えさせられるきっかけとしてだけでも尊いものであることは馬鹿なあたしでもわかるのだ。
とはいえ、そんな尊い存在である”子どもたち”を根拠に、実存的界隈としてあたしたちは意識を促されて覚醒して目覚ましく生きるべき、とは寸分の違いとしても個人的には何だか素直には頷けない気がしてしまうのだ。
”子どもたち”が、それを望んでいるとはどうしても思えない。
寸分の違いでこそはあっても、その駆動する”道義”として”子どもたち”が見つめる、伝えようとする意思はそんな聞き分けのいい位置にあるものとは、個人的には到底思えない気がしてしまうのだ。
自惚れた言い方をするなら、そんな”子どもたち”の意志に足るたかが個人としてその”道義”たる意識に辿り着くべきで、当たり前に振る舞える、受け取れる意識や理性を獲得することを目指す以外にそれに足る術はないような気がしてしまう。
他人から言い聞かされるなり気付かされるようなものではそもそもないはずではないのかと、個人的にははなから感じさせられている。
そういう面倒な生き方に、人生一貫して苛まれている。
外せそうな気は、これっぽっちもしていない。
気持ちの悪い世の中になる。
それはあたしというたかが個人としての感じ方にすぎない。
とはいえ、感じるからにはあたしというたかが個人にとってその行方は明らかすぎるほどの事実のはずで、とっくに、嫌というほど見かけるし感じるし、実生活までも侵食されているはずで。
それに抗うこと、当たり負けしない生き方や振る舞いを模索することに飽き足らず、それどころかこんなおこがましいような文言を早朝から書き留めたくて寝床から跳ね起きたりしてしまう。
年末だからなおのこと、そんな気分になってしまいがちであることももちろん承知して自覚している。
もうこういう鬱陶しい行為は極力控えていこうという意識はあるけれど、たかが足跡として残したい気持ちも控えるべき桁として自覚して許していきたいとも思っている。
だって、これはあたし自身として事実でしかないはずだし、いつか振り返ったとき、その正確さをたかが自分自身ばかりに対して誇りたいし、そんな足跡として証明しておきたいのだ。
そういうくだらなくもたかが個人として譲れるはずもない意識が、つまりはたかが個人らしい”道義”を曇らせないことを、あたしはあたしとして勝手に知っているつもりでいるし、疑う気などこれっぽっちもないのだ。
気持ちの悪い世の中になる。
あたしはたかがあたしとして、そんな”風の時代”には当たり負けしない、当てにしない、鵜呑みにしない、翻弄されない、自覚的に咀嚼できる振る舞いか生き方のようなことを都度に意識的に思いついて憚らず進みたいと思っているし、そういうたかが個人としての“強さ”を”子どもたち”というその尊い意識に捧げて応えたいとは思いたいし、魂として対等に負う意識でしかその関係か偶然に適うことは叶わないのではないのかと、かなり当たり前に、けっこう本気で思ってしまう。
謎解きでもここだけの話でも予言でも宇宙でもなんでもない、繰り返しながら渦を巻く人類という変遷の一部をたかが個人として自覚的に努める強さと然るべき傲慢さすら恥に据えられることのないよう心掛けて振る舞う意識で、”風の時代”というそのたかが偶然を満喫しながら、せめてはあたしというたかが個人ばかりを然るべくものとして違和に貶めることなく実現していきたいと思っている。
ずっと、そんなふうにしか受け取れない生意気さか生きづらさだとかに拘泥している。
気持ち悪いとは、ちっとも思っていない。
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