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3月, 2024の投稿を表示しています

嫌いなのは大谷さんでもお嫁さんのことでもない

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 壁紙の片隅にポン、と現れる。 まっくろくろすけ。 ではなくてニュースアプリのポップアップ。 そうです、スマホの壁紙のことでした。 ここ数日、そんなものがポン、と現れるたびに“またですか“などとついついこぼしたくさせるそんな二文字。 “大谷“ もはや“おおたに“ではなく、“オォタァニィ“なんて、イントネーションのアクセントは“タ“にあるべき押しも押されぬ“セカイのオォタァニィ“さん。 日本人として、そんな誉れ高きどころではない大谷さん情報を見かける度に“またですか“なんて思いがよぎるならその精神はほぼ国賊級、穢らわしくみすぼらしく跳ね返るたかが妬みかやっかみの言い草だ、なんてけんもほろろに口では言わないだけで目でコロス“切り捨て御免“なんてそんな価値すらないらしく見下してこき下ろされてしまうかもしれないその可能性すら押しも押されぬ惜しまれざること火を見るよりも明らかな“人間国宝“か“我らの自慢の長男坊“  “大谷さん“ またですか。 そんなここ数日。 なんて。 “大谷の嫁“ 沸きに沸いている。 湧くのは彼のプレイのことであってそうではなくて、この度は彼のプレイに沸いている。 沸いているらしい。 大谷の嫁に沸く沸く、いや、ワクワクしまくってるらしい。 実際には知らない。 なにしろXとかYahooニュースの斜め読み横目の視界みたいな出来事に過ぎないのだし、それはあたしという薄情さが思うことでしかないのだ。 偉大なる“日本の嫁“あるいは“日本の自慢の長女“ いわんや“我らの彼女“をや。 勘違いしないでほしい。 あたしは“大谷“も“オォタァニィ“のこともちっとも嫌いではない。 とはいえ取り立てて好きなわけでも嫌いなわけでもない、というセンシティブかアヴェイラブルかでもどっちでもないみたいな“嫌いではない“感じ、伝わるだろうか。 つまりスポーツ、あんまり興味ないんである。 そんなまったく個人的な興味から見る“大谷の嫁“なるここ数日の“日本の有り様“あるいは“日本という興味“について、さっそくタロットにかまけて愚痴を吐きたくなったらしいんである。 さっそくならさっそくとして行ってみようか。 またしてもジャンプで飛び出た。 重言だな、ジャンプは飛ぶやつだからな。 そんなことはさておき。 シャッフル、もはや下手くそでしかない気しかしない。 とはいえだからこそとも言えなくもな...

近頃やけにバブルっぽい”スピリチュアル”についてタロットに聞いてみた

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好きなのに、素直になれない。 まさか。 もうそんなお年頃ではちっともないのです。 って、一体なんの話をしているつもりなのやら。 そうです、そんな話ではちっともないのです。 とはいえ、あるいはそんな話よりはよほど執念か信心に近いものでありそうな気がしなくもない、のは趣味とか習慣とか培われてきた価値観だとか、人それぞれに様々あろうものなんですけど、詰まるところ“もうそんなお年頃では“的欲求というものは思いの外、お年頃的要因にもとづくものではなくもなさそうだよなあ、そんな気がしなくもなかったりもするよなあ、なんて相変わらず歯切れの悪い長文からスタートするものなのだけれど。 “二極化“ “風の時代“ などといった文言がそこかしこで散見されがち、というのも一部の割と普通の方々の心象におかれましてはまだ近頃のことのように感じるかもしれないことが、あたしのような趣味嗜好あるいは趣味思考偏重甚だしいタイプの人間にとってはすっかり耳にタコかほとんど詐欺の口実かなにかにしか聞こえなくもないほどにはすっかり耳にも目にも馴染み切ってほとんど腐りかけらしく飽き飽きとして受け流す“トレンド“その片隅における、的な廃れたトピックあるいはセンテンスに成り果てたものではありまして。 好きなんですよ、基本。 美容師が“カリスマ“を名乗り、整体院がアントレ的需要で乱立し、タピオカがアミューズメントにまで昇華された後その後はことごとく唐揚げ屋と化し、アイドルは地下から国民的現象へと上り詰めながら離合分散あるいは味噌糞一緒の如く趣向をカチ割りせめぎあいを繰り広げながら然るべき生理分解に辿り着いたものらしく時期も折り合いもよろしく地下に帰るものらしい、だとか。 そんな逐一を眺めるとよくよく似た感じを、近頃の“スピリチュアルバブル“にももちろんの如く察して眺めないはずはなく、先んじて申し上げました通りのあたしのような気質のものからすれば、“あれ、果たしてかつてからこんな感じでありましたでしょうか“といった呆気に取られるにも似た吹き抜ける隙間風にも似た心許のなさを都合思い付かされないでもないわけでありまして。 長々と自惚れたような見下ろしたがりのようなことをつらつらと申しております。 感じ悪いのでさっさとタロットに聞いてみようかと。 またしてもルーティンのシャッフルのうちにそれぞれがジャンプで飛び出て参りました。...

件の芸人界隈についてタロットに聞いてみた。

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まだまだ民衆裁判かもしくは公開処刑のデモンストレーションか、当事者たちの正式な動向こそまだまだこれからという現時点において、眺めるばかりのものたちばかりが先走るばかりの如く繰り広げる紆余曲折、どっちもどっちがどっちがどっちでもいやはや実はそうでもなかっただとか、SNSやネットニュースでは相変わらずの玉石混交ならぬ好き嫌いやポジショントークやただのマウントか蔑み合いの様相を無責任かお節介さながらに深めながら飽き飽きも辟易もない混ぜたるぺらっぺらなカオスの様相をいよいよ呈するものらしく、とはいえ個人的にはどちらとも共感するしない以前に何かしらの“違和感“ばかりがほとばしる薄情さで横目に見過ごして参りましたここ数ヶ月。 いや、件の芸人さんには大晦日などにはめっぽうお世話になったものですし、好き嫌い以前に数多のご活躍にすっかり便乗せしめた一視聴者として、少なからず馴染みの思いはないはずもなく。 とはいえ、 あたしはさまざまな観点において趣向が偏重甚だしいタチなものですから、 “好きな芸人さん誰ですか?“ なんて訊かれたら、“ですよさんです“ なんて即答しかねないすみっちょ暮らし気質といたしましては、大御所あるいは中堅と評される界隈の方々への特段の思い入れのようなものは案外希薄であったりもするわけで。 フット後藤さんみたいな、すっかり死んだ目も板についたプロ感も嫌いではないんですけど。 あと、ビジュアルとコンビ名の集合感という意味では“金属バット“さんがかなり憧れ的に好きです。 そんなことはさておき。 週刊誌やネット記事、はてはSNSなどで見かけるさまざまな言質に、どうしてかどれを取っても腑に落ちないというかスッキリしないこの気持ちは一体どうしたことか? とかねてより燻っていた超個人的“違和感“を、タロットで明らかにしたいと思いました。 2枚ともルーティンのシャッフルのうちにジャンプで飛び出てきました。 メインカードは大アルカナの最後のカード“The World“ “完成“とか“到達“みたいな、つまり集大成的な意味合いの多いカードです。 アドバイスカードは“ペンタクルのナイト“ こちらも結構似たような意味合いというか、“安定“、“誠実“といった手堅い意味合いの多いカードなんですが、問題なのは逆さまに出ているということなんですね。 個人的にはカードの意味合いにあまり囚われすぎな...

タロット勝手読み 2024.3.11

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  とっくの昔からずっとそんな感じ。 っていうのは近頃いよいよ感じさせられる、考えさせられる”日本人”っていう顕著さのことのような気がしないでもないんです。 メインカードは”ペンタクルの5” 基本的な解釈としては”貧しさ”とか”困窮”、あるいは視野狭窄的な囚われの状態を意味するものなんですけど、まさしくそんな感じ、そんな場面や価値観に出くわすことは少なくない気がする、という印象がごく個人的な偏見に過ぎないということなら何も問題はないのだけれど。 アドバイスとして求めたもう一枚も同じくペンタクル、というのが何とも皮肉というかむしろ救いでもあるはずなんですけど、つまりこんなカードの展開から感じさせられることは、今の世の中に蔓延する、当たり前の如く許容される”誤解”だとか”価値観”の迷走みたいなことを感じさせられる気がするんですね。 日常の些細な会話の中にすら、うっすらと主張されてすれ違う頑なな”自己肯定” ”肯定”と言えばいい意味に取れる気がするかもしれないんですけど、実際に感じさせられるものは多分そうではないはずなんですよね。 むしろ、それを思い付かせる”危機感”ということではないのかと個人的には感じさせられていて、それに反発する、打ち返すために必要な”自己肯定”という反作用ということだと感じさせられます。 当たり前ですよね、誰しもが毎日頑張ってるんですから。 そんな自分が、この先行き不透明な社会情勢にあって、その行き先であぶれるものであるはずがない。 これまでの、今日という一日の頑張りがこの先の世界における成果として否定されてなるものか。 そんな憤りにも似た”自己肯定”という欲求は、理解に難くないですし、当然の意思だと思うんです。 問題はその為に、”自己肯定”という抵抗する価値観に拘泥するあまり、それ以外を見損なうことに鈍感になりすぎること、背に腹は変えられないという意図に甘くなりすぎることへの懸念、といったことを個人的には感じさせられるわけなんです。 当初は話題になっていたはずのラーメン屋さんが、パン屋さんが、あるいはタレントさんやコンテンツが、どうして瞬く間に淘汰されて姿を消し移り変わっていくのか。 健全な新陳代謝と言えるかもしれないけれど、とはいえ度がすぎるならただの過当競争、それに群がるものたち、それを企むものたち双方の欺瞞に過ぎない気がしてしまうし...

どうしてなのか、鬼さんに聞いてみよう

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 “ああ、この世はダメになる“ って、当たり前に直感することってたまにあるじゃないですか。 当たり前の感覚として、ものすごくわかりやすい形で世の中に流布された、嘆かわしほどの鈍感さと誤解と物事の“道理“といったことへの思考の欠如、とでもいいますか、むしろそれを見越して食い物にするような底意地の悪さ、ということなら具体的な悪意があるからまだマシ、そんなことすら看過して現象やたかが話題性として衆目に奢りながら放置する“たかり記事“らしくやり散らかして憚らない節操のなさをこれっぽっちも疑うつもりもないらしい嘆かわしさ、そんなどこかの誰かを“一般大衆“というほぼ大半と捉えて見せつけて憚らない、そんな傲慢か依存か盲目かただの無思考か、そのすべてともいうべき世の中の傾向とされるらしい嘆かわしさ、とでもいいましょうか。 相変わらず捻転甚だしい文脈で、何言ってるのかちっともわからないと思うんですけど。 “躾けアプリ“ なんて謳いで取り沙汰されていたはずなんですよ。 お母さんの言うこと聞かない。 寝る時間になってもいつまでもゲームをしている。 好き嫌いを言ってご飯を食べない。 子育てには付きものの様々な困りごと。 “悩み“と深刻ぶるほどでもない日常の些細な手間や面倒程度の“躾け問題“への救世主、だとかなんとかそんな立て付けで。 言うことを聞かない我が子に手を焼くお母さん、ここぞとばかりにスマホを手にしてタイマーをセット。 「ほら、お母さんの言うこと聞かないと、おっかない鬼さんから電話掛かってくるよ。鬼さんに怒られちゃうよ、どうするのおっかないよ」 見透かしたようなタイミングで早速着信。 「ほら見てごらん、掛かってきちゃったよ」 さあ震え上がれ、とばかりに見せつけるスマホのには“鬼さん“からなる着信表示。 「ごめんなさいごめんなさいっ、言うこと聞くからっ」 こども、まんまと泣き叫ぶ。 お母さんしめしめで一件落着。 そんなものが、“流行ってる“なんて言い草でかつてプライムタイムのニュースで堂々と取り沙汰される様を見て、呆れるあまりめまいを覚えたものでした。 そんな“躾け“というまことしやかな手口を容認されながら“子育て“なる手ほどきのもと育った子どもたちが近頃に至って、“多動“だの“ADHD“だのと何やら使い勝手の良さそうな“病名“を与えられて分類されて、クスリを盛られたりクラス...

ホワイトになったら鵜呑みにしたくなってきたらしい

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” コメント欄が嫌いです” これって結構な万能語っていうか、聞く人によって想定するプラットフォームはそれぞれのことと思うんですけど、つまり想起される感情やわかりみみたいなものはほぼ共有したもののはずで。 ”コメント欄”と一口に言っても、その性質か状況のようなものはだんだんと移り変わったものらしく、時代の流れとかさまざまな事件や騒動を経るたびに認識される理解や価値観や社会性、なんていうと大層正しげでもっともで賛同に値する都度の結論的な正当性のようなことを想像しがちかもしれないんですけどその実、たかが変化の如くその性質を変えているのみでしかないとも言えなくもない感触で。 個人的には。 少し前までは目にあまる罵詈雑言や誹謗中傷も当たり前みたいな、Xとかむしろ民度下がってるくらいの謂れもあるらしんですけど、おおむねの傾向としてのたとえば岡田斗司夫さん曰くの”ホワイト化”ですか、そんなメッセージ活動か草の根啓蒙もあってか削除もBANも日常化、残されたリプやコメントはぺらっぺらのキレイゴトや妄信がさせるふわっふわの世迷言ばかりで枚挙にいとまもない有り様だとかなんとか。 ”誰々さんが言うことには” そんな言論って、本当に”程度問題”だと思うんですよね。 個人的には”スピリチュアル系”だとか全然アレルギーのないタチで、今でこそ流行りに乗って十万人レベルでフォロワーを抱える”インフルエンサー”的影響力を獲得した人たちがまだ何千人レベルで活動されていた頃から熱心に拝見させていただいていたくらいにはちょっと気味の悪いスピリチュアル好きで、そんな御仁も何だかよくわからないグッズや啓蒙を深めるに至って、ってそれはあたしが意地悪くそう感じたがっているだけでもあるかもしれないんですけど、 ”なんそれ” みたいな発動する薄情な感情は誤魔化しようもなく、それがもはやあちこちで散見される有様ともくれば何だか、当たり前なんですけど後悔先に立たないのはそんな御仁方ではなく他でもないあたし自身のことにこそ違いなく、なんてめっぽう不貞腐れた気分をここのところ思いつきがちであるらしく。 とはいえ、そんな御仁方が発信されるメッセージや感じ方や考え方には変わらず鶴首に値する共感はあって、妄信とか盲信、ではなく”同意”に値する自分自身の”理解”を促してくれる示唆に富んだその発信力、想像力、先進性にこそ信頼を思いつきた...