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7月, 2024の投稿を表示しています

アラズヤ、また変えるんだってよ

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  【9月2日からの価格改定につきまして】 [基本料金] ¥5,000     ・一ヶ月以内 ¥3.000(土日祝 +¥500)    ・二ヶ月以内 ¥4,000(土日祝 +¥500)       (月同日設定・過日希望調整はグズグズになるのでご勘弁ください)    ・カラー、パーマ、縮毛矯正に変更はありません    ・ハーブエイジング ¥8,000 (導入 3ステップ ¥18,000 )    ・ハーブクレンジング ¥1,000 [サブスクフリープラン] ¥10.000(三ヶ月継続条件)    ・カット無制限    ・カラー、パーマ自由提案    ・ハーブエイジング、クレンジング    ・縮毛矯正 +¥5,000でOK 今後予測される社会情勢を鑑み、ノーシャンプーのメンテナンスプランはサービス終了となります。 というのは建前で、実験結果としての不貞腐れ却下として他記事にて赤裸々に開き直っておりますので勇気のある方はご参照くださいお薦めはしませんけど。 的確な未来予測のお話です。意味わかんないですね。 というわけで、 そんなこんなで今後の見通しといたしましては、 “ケチな理由で諦めさせない” というお節介な個人的倫理と嫌悪に基づく小回りの効いたサービスをご自身にケチ臭くない方々に向けてのみ提供させていただくお任せもしくは勝手気ままな“成り行き型商店”としてアップデートしてゆきたい所存なのであります。 カラーしたいけど高いでしょ、パーマしたいけど高いでしょ。 いや、他の店見てごらんよもっと高いから。 だからって、そもそもどうしたらいいかイメージないしわかんないし。 って、やる気あんのかボケえ。 なんてな。 ケチだし発想力もないあなたの怠けた興味を勝手にいじらせて欲しいんですよね、つまんないので。 バラバラで買うから高いだけで、まとめて買ったら安くしとくよってそれってただの商売下手だしコテコテの街商売の乱暴さだと思うんですし、せっかくだからそんなついでに“見たことない自分”くらいのことさっさと出逢ってみたらいいんですよね、つまんないので。 “アップデート”なんちゃってそんなの言い方だけで、心は“温故知新”ですよ。 お節介型のたかが個人商店ですよ。 切り放題だしメニュー全部込みだしその代わり勝手にやらせて欲しいって、まあ横暴。 いや、もちろん希望聞きますけど、わか...

お説教も効かない社会に先駆けるお説教

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 思いの外にも近くこの世は、社会はどんな有り様になるのか。 たかが想像でも与太話でもそんなことうっかり口走ったなら、隠すつもりはなくもないけどそんなんも面倒臭えや、くらいの雑さに任せた嫌悪か偏見に満ちた面持ちに出くわすことは避けられないわけで。 とはいえこちらこそ避ける気もないわけで。 たぶん、もう限界なんですよね。 そんなもんに出くわさせてくれた方には覚えもなくもなさそうなことを言ってしまえば、あたしの思考回路はもうとっくの条件反射。 それどころか触れれば尖る脊髄反射ですよとっくに。 すべての話がたかが一点に凶悪に帰結する。 ウチにはもう、そんな感じしかないですね実際。 とんでもない“地雷空間”ですよ、無差別攻撃の通り魔と変わらない進撃の逆恨み。 何言ってるのかわからないならあなたは一部の限られた優良な人物かもしれないから、この先を読む必要はないと思います。 せめては勘違いでないことお祈りするばかりなんですけど。 ここ一年程費やした観察期間を終えようとしています。 この夏を境に、ウチはまたしても横暴な変革に挑む所存でいるわけなんです。 “変革”だなんてそんなのは大袈裟で、言うなればたかが個人による”テロリズム” 公明正大に蔓延るたかが個人としての”反社会派”なる精神的欲求のススメいわんや破壊活動をや。 そのための観察期間だった、ということ。 甚だしく問いかけるも世間たる思考か価値観というものはベタ凪の如く無反応か決めつけの上に都合か言い訳ばかりだとか、そんな受け止め方からすでにまったきテロリズム。 そうなんです、とっくに嫌になってる。 そんな強制変革あるいはたかが終了らしく。 世間は損得勘定が得意らしい、というかそればかりが選択のすべてらしいので、そんな興味に沿った設問となります。 直感を誤魔化さず率直にお答えいただきたいんですよ。 “三ヶ月に一回、5,000円” “毎月、1,800円” お店にとって、より歓迎に値するお客さんはさて、どちらでしょう。 他のお店さんのお考えは知らないです。 あたしんちに限ったお話なので、勘違いしないでほしいですし、とはいえウチに限った話ではないあなたという日常的な価値判断でお答えいただきたいんです。 隠す気もないので早速解答です。 そんなの、 “三ヶ月に一回、5,000円” に決まってるんですよね。 1,800×3=5,40...

他人事だと思いたいだけの似たもの社会の終わりは近い

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 “人は見た目が9割” なんて身も蓋もないタイトルの本がかつてあった気がするんですけど、それってたぶん身も蓋もないような残酷な事実だと思うんですよ。 ”人は相手を見て弁える” ってこれはたかが個人的な当たり前の理解として心がけるものなんですけど、先のタイトルとほとんど意味が変わらないことのような気がするんですよ。 ”カスハラ” 近頃よく目にする耳にするワードなんですけど。 世の中、心得のない人は少なからずいるわけなんですけど、それに遭遇していちいち腹を立てたり傷ついたりするのは馬鹿馬鹿しいことですよ。 あたしは生涯のほとんどを”接客”に費やしてるので、誤解も含めていろんなお人柄に触れて考えさせられる機会は割と多かった人生ではあるはずなんですよね。 結果、まあまあの人嫌いだとかそんな不毛か傲慢の甚だしさはさておき。 一体、誰のせいなのか。”カスハラ” たかが個人的見解として、”自家中毒”みたいなものと思ってるんですよね。 もっとわかりやすくなら、”自業自得”だとか。 ”人は相手を見て弁える”って、そういうことのはずですし、そんな結果としてまきおこる現象ということでしかない気がする、ってことですね。 一つの考え方として、ですよもちろん。 ”カスハラ”を仕出かす一人の人物を“カスハラん”とここで名付けます。 ”カスハラん”は、生まれつき”カスハラん”だったわけじゃないんですよねきっと。 どんな育ちで性格か、なんてことはいちいちどうでもいいんですけど、とはいえそんなそもそもの性質がさせること、はじめのうちはシャイか臆病かともあれ悪気などこれっぽっちもないつもりの態度が、相手には疑り深くか取っ付きにくく思われがちでしかなかったことが、繰り返すうちに自身に見舞われがちな境遇として、待遇として、無愛想か冷遇が社会から差し出される常としての態度という逆恨みにも似た自覚という偏見に思い当たって、都度に深めながら、それを打ち返す術として徐々に鍛えて身につけたらしい態度、”カスハラ”を発現させて厭わない強固な姿勢をいつの日か些細な事態をきっかけに爆誕させるに至ったものではないのか。 ”人は相手を見て弁える” そうして見舞われる有り様を、”カスハラん”はすっかり自分自身として、厭わなくなってしまったものではないのか。 社会こそが自分を決定した、などとそんな惨めな誤解の欠片もなく嘆き...

恒例のTV番組を偽善呼ばわりしたいだけのたかが性悪みたいな

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 人なんて所詮、身近な他人の不幸に救われないとたかが自分程度も支えられないんですよ。 親切そうに振る舞って見せるだけ、心の中では”ザマアミロ”とまでは思わなくても、”かわいそうに。自分はこいつよりまだマシだな”なんて、嫌でも思いついてしまうし下卑た安堵を隠せない生き物。 それが”人間”っていう、何よりの証拠みたいな心の動きだと思うんですよね。 あたしはとんでもなく嫌な人間なのではっきり言ってしまうんですけど、そういうこと本当に思わないんですよね。 悲劇とか不幸とか、ただの映画や物語でも見るのも聞くの嫌。 いざとなれば避けられるはずもない感情をわざわざ作りものとして見せびらかしたがるなんて問題外ですし、いちいちのニュースや報道なんて整然としてるだけむしろ迷惑。 気が塞ぐようなこといちいち知らせんなって、不機嫌になる。 何もしてあげられないし、同情も理解も安易なことは言うべきではない、なんて綺麗事こそ苦手ですよ。 不用意に戸惑わせないでほしいし、貧弱な自分をわざわざ自覚させないでほしいって思う。 ”心苦しい”って、個人的にはそういう心理状態のことだと思うし、自分のことすらどうにも出来ないっていうせめては虚無、率直には自己嫌悪でしかないですよひ弱にも程があるみたいな。 上手く伝えられそうにないんですけど、だからあたしは”所詮”なんて決めつけてせめては嫌うんだと思うんですよね。 だって、”所詮”以上のものが当たり前にあってそれを他人に向けて惑いなく振る舞えるなら、それが本当ならあなたはそれを受け止めて”感謝”だとか、そんな美徳を狼狽えず振る舞えますか。 そんなの、惨めすぎて嫌ですよあたしは。 決定されて惨めすぎて、舌噛みますよそんなの。 ”所詮”として遠慮なくあれ。 それを承知の上で喧嘩を売って、残ったものだけ褒めてやる。 その方が楽だし、実感深そうじゃないですか。 面倒なんですよ、意味わからないですし。 あたしなんか”所詮”そんなものとして、決めつけられるような理解らしきものなんかに救われたくはないんですよね。 そんなもの、絶対に筋違いも勘違いも甚だしい不愉快な決めつけでしかないことくらいわかるじゃないですか。 だって、人は見込みで決めつけて”安堵”したい生き物ですよ。 そうでもしなければ不安すぎて、自分ばかりも支えられない生き物ですよ。 なんですかそれ、面倒臭い...

どうしたら気が済むのか言ってみろ

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世の中は、未だに何かにつけ執念を焚いて諦めないものらしいのだけれど、だからこその思う壺、みたいな話をしたい気がしています。 ”エモーショナルな刺激を、いよいよ疑え” 個人的にまったく腑に落ちなかったはずのことを、どういったわけかここのところ何となく、満更でもなく意識しないでもないらしい自分自身のことをそこはかともなく感じないでもないらしく。 つまり、そんな言い方をしたい程度には曖昧な感覚ではあるのだけれど、ということなのだけれど。 先日のトランプさんの一件、個人的にはとても気味悪く感じさせられるばかりだったりします。 もちろんセンセーショナルな出来事ではあったし、よもやの結末に至らなかったことは世界的に良好な顛末ではあったはずなのだけれど、多分ですけど、アメリカ国民以外にここまで馬鹿騒ぎしているのは多分、日本人だけのような気がしてしまうのはあたしだけなんでしょうかね。 単純に、違和感を覚えるんですよ。 都知事選は後の祭りばかりが盛況で、選挙自体は消え失せたように、当選した本人こそ消え失せたの如く存在感を感じさせない知らぬ存ぜぬの横綱相撲ですか。 なんか、おかしくないですか。 ここ数日だけでも小池より、安倍の文字を余程多く見かけることに不自然を思いつくつもりはないですけど、トランプの無事がどうしてそこまで日本人に刺さるのか、個人的には違和感の方がよりお節介に浮かぶもので。 "Make America Great Again" 自国ファーストを声高に叫ぶトランプを、属国である日本の国民が手放しで支持してその身の無事に安堵する。 それほどでもない人々をこれみよがしに論って晒し者にする、唾棄する、排除を望む。 まるきりわからないでもないけど、今年十一月の彼の再選を微塵の疑いもなく確信して歓喜する日本人の少なくない人々の意図が個人的にはわかりかねるというか、それはトランプ批判ではなく、自国の政治家には少しの興味も信頼も思いつけない国民が、事実上占領されているに等しい状況にあってその占領国の次期大統領と召される人物を手放しで支持する意図というものは、かなり深刻な”洗脳状態”なんて思えないでもなくて、個人的にはすっかり気味が悪いし、バイデンよりトランプの方がまだマシ、とかそういう話でこそない気がしてしまうのだけれど、それはそれとして付き合わせたところで右だ左だ...

若者はそれを手本になんてしたくない

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 人嫌い、世間嫌いのくせに、生涯労働時間のほとんどを商売に費やしてるなんて、我ながら矛盾している。 お客が来てくれないことにはお話にならないことを生業としながら、誰彼ともなく一先ずは満遍なくお客を寄せ付けんとする”商魂”に心惹かれたことがない。 そんな見栄も、商人としてはっきりと矛盾している。 だから、ダメなのだろうか。 そうではない。 ”人嫌い、世間嫌い”として、実に成功している。 むせかえる陽気の最中、ましてや週末ともあろうに、午後の時間をこんなはしたない文章書きに腐らせている。 焦燥はなくもないが、深刻なほどではない。 やはり手広く宣伝して新規顧客を獲得せねば、などとは爪の先ほども思わない。 宣伝してようやく寄りつく輩など、今どき商売の負担にしかならないと、完全に見限っている。 ”カスハラ”とは総じて、鈍感で自覚を欠いた馬鹿な人間がしでかす無様のことだと思っている。 身も蓋もない言い方をしてしまえば、所詮程度問題で、この世に呼ばわる”お客”などというものは多少の違いこそありながら、基本的には無自覚なハラスメントを着た薄情ものに違いないのだと横暴なことを結構本気で思っている。 気付きに疎い人のために補足するなら、そんな性質を”損得勘定”という。 そんな前提の言い草ということだ。 恐らくそんな理解は爪の先ほども思い当たらなかったことかと思う。 ”お客”とは、その程度の感度で十分としながら憚りもせず薄情に寄りつくもののことと、基本に据えている。 欲しいのに、目的があるのに薄情であるとは、矛盾していやしないか。 とはいえ、そんな自覚はないお客がこの世はほとんどなのだから、それを否定するも事実と決めつけるもたいして変わらぬ言い草であることを理解するべきなのだ。 それぞれによる”主観”ということでも問題ない。 こじつけでも屁理屈とでも好きに言え、と思う。 そんなこれっぽっちも意味のない価値もない思い込みか決めつけのようなことに、生涯労働時間のほとんどを費やしている。 それは、あたしの人生において何よりのテーマのように、当然のように感じさせられて爪の先ほどの疑いもないのだ。 我ながらおぞましいぶっ壊れぶりだ。 あたしがあたしなら、お客もお客。 お互いに矛盾しているのだから、よいではないか。 何も問題はないだろう。 そうだろうか。 多分あたしはそうは思っていないはずな...

オススメするけど、勘違いするのはきみだから

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 岡田斗司夫さんがYouTubeで”中二ヒス構文”っていうお話をされていたんです。 わからない人にはなんのことやらさっぱりのワードに違いないはずなんですけど、”構文”って言い回しくらいなら案外見聞きしたことあるんじゃないですか、”進次郎構文”だとか近頃なら”石丸構文”だとかってアレのこと。 その人が言いがち話しがちみたいな”言い回し”を”構文”という建て付けにすり替えて揶揄する”言い回し”なんちゃって相変わらず回りくどい言い回し。 ”中二ヒス構文” 中学二年生的エモーション。 青臭く純粋で、とはいえただの勘違いには違いない無邪気でナルシスティックな自己愛が奔放かつ無自覚に発動させるヒステリックな妄想、言動。 そんな”構文” そんなものを、近頃は大の大人が振る舞いがちであるらしいことをあらかじめ危惧する氏による指摘あるいは注意喚起、といった文脈に触れながら、とっくに心当たりがあったわけなんですよね。 大得意だ、と。 岡田氏曰く、”それをやっていると、だんだんと人が離れていくよ”とのこと。 かねてより氏は”ホワイト社会”なるこれからの社会の在り方という予測あるいは定義を示されているのだけれど、なるほどと思わされつつもそれが既定路線かあるいは良識なる変遷の予測か定義であるらしく酌量されがちでありそうな文脈らしく形成されていることにはまったく触れられないことに、あたし程度の低脳は少なからず違和感を都度に覚えるもので、とはいえそれは否定でも嫌厭する意図でもなくむしろ、”事実ではあっても真意ではない”という良識にこそ優れた”穏便なる処世術”としてのススメ、であるはずといった積極的酌量のつもりでこそあって。 つまりは何が言いたいかって。 ”社会生活を当たり障りなく穏便に快適に過ごす”ための”オススメ構文”として、あたしなんかは氏のお話は常にそんな尺度で受け止めるもので。 ”真意と良識は、別物だよ”という言い方によっては身も蓋もないことになりかねない”オススメ”なのだけれど、だからこそ、なんですよね。 近頃執念深く綴り始めた、再開したこのブログ、完全に”中二ヒス構文”ですよ。 完全に自覚がありますし、むしろそうでなければならん、という自分でも手に負えないばかりのエモーションズ、とあえて複数形にしてしまいたくなるマラキャリ世代としてたかが個人的心境としてこそ、意図的にその特性...

コストコでもなんでも吊し上げる魂

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コストコが年会費値上げするらしいです。 今どき珍しい話ではないですよね。 Amazonだって高くなったし、電気代も靴も猫の餌だって高くなりましたよ。 コストコに行く機会があたしはないので関係ない話だ、って思いながらポップアップ記事を眺めました。 ”電気代爆騰”って、もう語彙だけじゃんアホか、なんてムカついてそんな記事読む気にもなりません。 興味がないとか、関係ないとか、どうでもいいとか理由はさまざまなんでしょうけど、世の中ってつまりはそういうことばっかでしかない気がしてるんですよね実際。 電気なんて毎日使うし欠かせないものだから高くなると聞けば気持ちは穏やかではないけど、そんな脅迫文みたいな記事を読んでみたところで腹が立つだけだし来月の電気代が安くなるわけでもないし、とはいえそんなトピック見かけただけでも無駄な電気は消しましょうって本能的に身構えますよね。 その程度の態度しか思いつけないって、たとえばそういうことなんじゃないですか。 コストコが自分の生活圏内で、案外便利かお得な気がしていたのなら、もう少しはそんな記事も開く気になったのかもしれないですけど、関係ないってつまりはそういうことのはずで。 年会費払ってまで利用したいなりにはそれなりの理由がきっとあって、それなりの価値を見込むからだと思うんですよね。 買い物以外に、会員っていう建前上前を搾取されても納得できるバリューを感じなければ、そんなもの払うはずないわけで。 とはいえ、近所のそこらでもコストコ商品なんて売ってるじゃないですか。 あんな倉庫風情とは比べ物にもならない規模には違いないですけど、なんならメルカリとかでも目当てのものさえわかっていればいくらでも見つかる。 コストコのパックT、具合い良いのであたしもそればっかは買うわけで。 すっごいデカいピザとか、ラザニアとか。 牛にでも食わせるんか、みたいな。 そんなもんばっかが嬉しくて楽しくて年会費なんて払いたがるのはただの馬鹿っていうか言い方変えれば最高のお客様には違いないんですけど、これって個人的な偏見なんですけど、そういう感度の人って多分、地球に優しくない感じのことばっか好きな人のような気がするんですよね。 マック好きだしディズニーを夢の国とか言い腐るしついこの前までマスクして常識気取ってたとも思うんですよ。 わざと言ってるだけだから真に受けないで欲しいん...

どんなつもりもないしそれぞれにあるだけ

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 昨日は本当にゆっくり過ごして、ゆっくりお酒も飲めてゆっくり寝ました。 おかげで機嫌が良くも悪くもなく、やる気があるわけでもないわけでもなく、楽しいわけでもつまんないわけでもない、言うなれば何にも興味がわかないというか夢も希望もないけどそんな気が良くも悪くもなく認知できる感覚というか、つまりは可も不可もなく豊かでも貧しくもなく幸でも不幸でもない、みたいな何かにつけニュートラルな心境とでも言いますか開き直りますかとかただそんなつもりなだけだとか極めてつまりどうでもいい感じ。 いや、そんなことあるか。 可もあれば不可もあるし、豊かなつもりだけれど人目には貧しく映るのかもしれないし、幸でも不幸でもないなんてとんでもない、娘と猫が今日もなんともなく無事であるならそれだけであとのことなんかどうでもいいと常から思っているし、可も不可も豊かでも貧しくてもそんなこと、自分ばかりのことなど自分でどうにかすればいいだけのことのはずだし自分でどうにか出来ることなどどっちでもなくどうでもいいことのはずだとかなり本気で思っている。 それすらもままならない、自分以外の自分ではどうにも出来ない厄介や不幸に見舞われるほど不幸なことはないととっくにわかっているつもりだし、だからこそ、自分程度のことをどんな角度から眺めようが、そんなことは当たり前にどうでもよくニュートラルにしか扱いようもない極めて自由で好き勝手にやればいいだけの瑣末なことだと思っている。 そんなことも当たり前に理解して振る舞えないなんて、まったく意気地のない自覚もない無駄遣いみたいな人生の不幸だと、かねてより思い続けているわけで、裏切り続けてもいるはずで。 つまらないなら、それは自分のせいに決まっている。 まして、あたしはサラリーマンじゃないからいよいよ、すべては自分のせいに決まっている。 仕事がつまらない。 つまらない仕事をしているからだ。 つまらない仕事をしているから、お客にすらつまらないことを口走らせてしまう。 その程度のことを思い付かせてしまう。 だから、やりたくないと言っているのだけれど、それはたかが目的として訪れる類のお客にはめっぽう迷惑な話でしかないらしいのだし、つまらなくてもいいからこちらの都合と条件に合わせろ、なんてことはこちらこそ迷惑も甚だしい話だ、といったことをこのところ言い続けているだけなわけで。 この...

思想舐めんな

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 気分ばっかの話なんじゃないのかと、思わされないでもないんですよ個人的には。 史上最大の盛り上がりを見せた”都知事選”だとかなんとか。 確かにそんな風に見えなくも感じさせられなくもなかった気もしなくもないんですけど、って早速煮え切らないような言い方になってしまうのは、所詮そんな建て付けにこれっぽっちも共感が持てないからに決まっているわけで。 ”誰に投票したらいいのかわからない” だとかって、そんな言質をかなり見かけた耳にした気がするんですけど、それってもっともらしくも所詮一部の言い草でしかなかった、それどころかそもそも投票行動から面倒でしかない気がしているのかも知れない類の人たちの言い訳らしくもっともらしいだけの言い草でしかなかったらしい”選挙結果”と言っても過言ではないような気が個人的にはしてしまうわけなんですよね。 別に、それが悪いって言いたいんじゃなくて。 実際、”タレント”に乏しかったってことなんじゃないのかな、だとか。 だって、所詮”話題性”とか見慣れたもん勝ちの”人気投票”みたいなものでしょ日本の”選挙”なんてものは。 だとか。 というか、もしかしたらあたしみたいなへそ曲がりに言わせたら、むしろ熱心に街頭演説なんかに駆けつけて熱心に声を上げていた保守系か改革革新派か何かよくわからないですけど、つまりは現状を憂う嘆く向きの主張に引きずられがちな、ちっとも間違っていないまともな理解や姿勢を隠さない人々たちの方が、むしろまんまと”選挙”っていう手法に乗せられてしまっただけなんじゃないか、なんて感じさせられないでもないところがなくもなくてですね。 だって、あたしみたいのに言わせればこの世は、この世の多勢を占めるものらしい感性や理解なんてものは、ほとんどまったく無自覚に自惚れただけの馬鹿ばっか、みたいな気ばかりがしているわけで。 唯一褒められる気がするというかそんな言い方もないんですけど、まあまあだったなと思える点があるとすれば、たとえ5ポイントばかりとはいえ前回選挙よりも投票率が上がった点で、それでも60%という水準は”組織票”を覆すには足りなすぎる結果ということで、ましな上にも所詮、的な印象こそ拭えないわけで。 結果ばかりに目を奪われて、それに至るまでの状況を踏まえた”総括”的な理解を、いったいどれほどの人々がごく個人的な理解においてでも思いをはせられ...

なんもかんも潰れちまえと思いながら営む商売

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 欲しいものなんてそんなにないんですよたぶん。 だけど、せっかく朝から晩まで一生懸命働いてるんだしおかげでそれなりのお金がもらえるんだし、って人々は結構無駄金を使う。 何より自分自身をボロく騙してすっかり欲しい気持ちになってボロい満足ばっか使い捨てるみたいな金の使い方ばっかするんですよたぶん。 ”カスハラ”とか言っちゃって。 そうやって何かにつけ言い草になりそうな言い草を軽々しく名付けて許容しちゃうから認識として存在させてしまうわけで、そんなもんの総称も通称もなくただの”クレーマー”って普通に呼びつけて相応しく毛嫌いしておけばいいのに、なんだかいつの間にか一部として見受ける風潮かなんからしく見せつけるもんだからなんだか存在理由はなくもなしみたいに誤認してしまう調子の狂った頭のおかしい人って見苦しく幸せに狂っちゃうんじゃないですかね恥も外聞も知性品性のかけらぽっちこそなく。 気狂いって言い方を不適切として毛嫌いした世の中っていうのは、きっとまだ庶民が庶民らしく清く正しく貧しい時代のことだったんじゃないかなって思うんですよね、一つの考え方として。 その後の世間を”失われた三十年”と呼ぶのかなんなのか知らないですけど、言い方を変えれば失うからには得ていたものはあったはずで、”失われた三十年”以前の”満たされたっぽいいくばくか年”とか変な言い方になっちゃうんですけど、そんな最中に何かの気が違っちゃったんじゃないのかと。 気狂っちゃったんじゃないのかと。 かつて”気狂い”っていうのは、ある意味優しみから見た嗜みによる自粛の標的だったのかもしれなくて、”気狂い”と言わしめた一部の人々というのは本当に一部の本当の”気狂い”で、なりたくてなったものではなく狂った存在として”満たされたっぽいいくばくか年”以前の社会的計らいとして、品性として、ある意味労りにも似た計らいをもって自粛される言葉遣いに足る存在として自粛表現を授けられたのかもしれない気がしないでもないんですよね。 そうして間も無く訪れた”満たされたっぽいいくばくか年” つまりは一億総中流とか言われた時代からバブル景気とかそんなこともあったよな、みたいな頃に至るまでのことなのかもしれないんですけど、きっとそんな調子の中で人々はそれまでの”気狂い”とは違う本当に一部の本当の”気狂い”なんかではちっともない、見苦しく浮かれ...

自惚れた目で周りばっか気にしてるからダサいしダサいことばっか言うんだきみは

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 当てにするなりに、その行き着く先には不幸を呪うばっかの”所詮世間”みたいな感じ、大嫌いなんですよねあまりにもわかりやすいしともあれ下品すぎると思うんですよ。 大谷くんや石川くんを子供の頃から見知った近所のガキンチョの如くかいつまんで我が物顔で絶賛する呑気で熱心に自惚れる日本人の一部界隈も大嫌いですし、ワクチンがどうしたこうしたってその真偽か善悪のようなことを鬼の首でも取ったみたいに今頃必死で捲し立てるタイミングのズレた使命感に駆られがちな人の感度もリテラシーもノロすぎてほとんど馬鹿に見えがち。 つまりなにが言いたいかって、性格悪いんですよあたしってやつは。 世間は正しさとか価値とか評価とか、そんな指標やランク付けを当てにして何かと買い漁るものらしいんですけど、それが本当で間違いなくて満足なはずなら、そんな親切捗々しい世界にありながらどうして世界は人類は戦争なんてことをしでかしたがるものなのか。 指標に従ってランクが妥当で、それがより多くの世間に満足を促すなら、正しいなら、そんなものばっか欲しがって信じて疑いのない、それ以外を見下して然るべきとふんぞり返る間違いのない人々同士として、満足甚だしく仲良しでなければおかしくないですかね。 言い方ややこしいですか。 ただの屁理屈に読み取れるなら、むしろそれってダブルスタンダードっていうあたしが差し出した文脈そのものだと思うんですよ。 似たようなそれ以外を我こそとしてはみ出さず競い合う無自覚依存の見苦しさ。 だって実際世界は同じ眺めの手のひらの中ばっかで便利で満足だって、おかげで宅急便の配送スタッフさんったら預かり物蹴り飛ばす勢いでてんてこ舞いらしいじゃないですか。 そんな荒ぶる姿をSNSに晒されるとかちょっと無防備にも程があるとは思いますけど。 何が言いたいって、つまり人々は躾けられたように同じ方向向いてるもんでしょ、そうして奪い合ったりいがみ合ったりするんでしょ似たもん同士として、ってこと。 その不自然さをむしろ常識として流行りとして評判としてコモンセンスとして着込んでそれ以外を”異常”として悪様に見下して嘲笑う、”あそこのお店っていつも暇そうだよね”なんてさ。 そんなお前は流行りか親切か知らないですけど満足なお店かサービスにちゃっかりかこつけてすっかりご満悦らしくそれ以外のものをクズとして物見の見物で万事完結し...

諦め改革宣言

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 現代日本人のコミュニケーション能力っていうのは、ほぼ絶望的に崩壊していると個人的には完全に思っていてですね。 なんて、あたしみたいなのこそ一人語りのエネバンプレイヤーとして日々お客様のご機嫌こそを辟易なる惨状に貶める愚行を繰り返すばかりなんですが。 とはいえ、なんですよ。 あたしはあたしの話したいことばかりには異常者さながらに饒舌で語るに尽きない鬱陶しさとくるモノなんですけど、どうなんですか、個人的に感じさせられるにはこの世のほとんどの人たちについてむしろの如く”言葉を持たない”モノらしく感じさせられて仕方がないんですよね。 その上で、他人のことばかり気にして知った風なことばかり決めつけて言いたがるばかりの節がありありと見て取れる気がするのが、なんかものすごくイヤなんですよね。 実にシンプルな感情において。 見たままのことばかりの世の中のような気がしてしまうのは、なんとも味気のないことだと思うんですよ。 って、そんな言い方程度では”絶望的に崩壊”してる現代社会には一体何事なのやらさえ伝わらないでしょうことはもちろん承知の上なんですけど、それってつまりなぜなんだと思いますか。 あたしなりに考えるにはですね、”守られてる”からだと思うんですよね。 日本人の大半がそんな立場にあるからこそ、っていう社会構造として然るべき性質というか。 しかもそれって甚だしく無自覚で傲慢な思い込みであるはずなのに、そんなことすらもすっかり忘れ切ったモノらしい態度として然るべく平然と振舞われる思考される、望んだものでこそあるらしい”価値観”っていうねじくれた有り様のことのような気がするんですね。 個人的には日頃からそんな気ばかりがして仕方がないわけなんです馬鹿なので。 今日から新札発行ですか、楽しみですね。 まじですか。 そうしてまた一つ、退屈が食い潰せそうな気がしますか。 どうせすぐに当たり前みたいな顔して飽きちゃうだけには違いないこととはいえ、たかがそんな手前の一瞬だけでも、とか言っちゃったりしてな。 券売機や両替機なんかが欠かせない業種では、設備対応を諦めて廃業を決断するお店も少なくないんだとか。 それもそうかもなんですけど、そんなもんなんですかね。 パチンコなんてただの利権の塊だし、現金が面倒ならキャッシュレスにすればいいだけじゃん着いて来れないなら勝手に潰れろ、っていうのが...